三重県は8軒

古ツアさんが三重県宇治山田の古本屋「ぼらん」さんを訪ねていて、これがまた楽しいレポートになっているが、さっそく三重県の古本屋状況を日本の古本屋で確認したところ、組合加入店に限るが、なんと通販専門を含め8軒のみ。かつては、万陽チェーンだけで13軒あったのだが、その万陽も1軒(小俣町湯田)を残すのみ。ついで、と言ってなんだが、滋賀県を調べるとこちらは11軒あり、しかも2008年調査のときと変わっていない。つまり閉めた店がない。がんばっているんだなあ。お、そんなことしてる場合ではない。仕事、仕事。
彷書月刊」連載で、消え行く古本屋をもっともっと追いかけたいが、と焦る。

いま深夜2時半か。ようやくTBS放送原稿、春日太一『天才 勝新太郎』文春新書を書き上げ送稿。今週、たてこんだ締め切りの一つをなんとかこなす。
25日には国立「ロージナ」で、もと文藝春秋編集者の豊田健次さんに、みすずの宮脇さんとともに、野呂邦暢についてあれこれ貴重な話をうかがう。必読の文献、豊田さんの『それぞれの芥川賞直木賞』文春新書は、もちろん再読してメモを取る。いかに豊田さんと野呂の結びつきが強かったかがよくわかる。豊田さんが「文学界」配属になって初めて目をつけた生原稿が野呂のもので、以後、蜜月が続く。豊田さんが「文学界」を離れた昭和44、45年は、野呂の年譜からも、創作の作品名が消える。とうぜんながら、向田邦子山口瞳の話もでてきて、興味深い一時間だった。山口瞳が書く文章にしばしば豊田さんも登場するが、豊田さんの目から見ると、現実の場面では、山口の筆とちょっと違っていたらしいが、それを創作を交えて文章化する山口の作家としての力量をむしろ買う、という話もあった。
向田邦子は必ず読む好きな作家として野呂邦暢竹西寛子阿部昭を挙げていたが、野呂を勧めたのが豊田さんだった。向田は「諫早菖蒲日記」に惚れ、ドラマ化に奔走するが、とりあえず「落城記」のドラマ化が実現(シナリオは別の人)、昭和55年に上京してきた野呂と顔合わせをする。その十日ほど後、野呂は急逝。翌年に向田邦子もまた雲の上の人となる。「邦」のつく担当の作家を相次いで失った豊田さんの心情、察してあまりある。
なんとかみすず「大人の本棚」の野呂邦暢エッセイ集はいいものに仕上げないと。