昨日はずっと家にいて、「古通」連載(ひばりケ丘「近藤書店」と、田無の純喫茶「フジカフェ」)。「サンデー」のレギュラーページを仕上げ、送付。「サンデー」では、70周年を迎えた「暮しの手帖」を取り上げる。「新潮45」との比較で書き出すが、字数は少なく、あざとい気がしてその部分を削る。
ひさしぶりに古本屋の夢を見る。関西の知人と、地方の某駅(初めて降りる、寒駅)で下車。「古書」の看板を見つける。知人は誰かに会う用事があり、あとで駅で待ち合わせることになり、じゃあぼくは銭湯へでも行くとウソをつき(なぜウソをつく必要があるのか)、心の中でしめたと思い、店へ向う。手前半分は電気量販店で、奥が古書部。しかし、並んでいる本は廃棄寸前というやる気のない品揃え。それでも何かあるかもと、探すが何も買えず、さあ困った(原稿に書けると思ったのだ)と脇に汗をかいたところで目覚める。
涸沢純平さんの編集工房ノアの回想第二弾『やちまた』を興奮しながら身を震わせて読了。何度も、ウッと胸に迫り、しばしページを開いたままになる。著者との関わり方が、なんというか濃く熱い。60代で亡くなった人も多く、書く仕事の体と心にかける過重を思う。「鉄道」を意識して志賀直哉「網走にて」ほか、いくつかを読み返す。幼子を轢き殺したり(「正義派」)、山手線にはね飛ばされたり(「城の崎にて」)、鉄道がもたらす災禍、負荷について考える。
浅草「待乳山聖天宮」の南、言問橋南交差点の北側の小さな三角の町が、旧「聖天町」で、池波正太郎はここで生まれたという。現・浅草7丁目2番地か。ここから、聖天宮をお参りし、吉原へ続く江戸の浅草土手跡の道を歩きたい。「唐茄子屋政談」に出てくる。