いまや誰も読まない外村繁は、中央線文士、阿佐ヶ谷会の一員。巌谷大四(「純情可憐な酒呑みーー外村繁」)によると、晩年はかなりひどいアル中だった由。文字を書くのにも手がふるえ、片方の手で押さえて書いていたという。阿佐ヶ谷会を楽しみにしていた。「口かずの少ない人で、隅の方にきちんと坐って、ちびりちびり呑みはじめ、一本がとこ呑むと、ようやく震えが止る」。外村は58歳で亡くなっている。同じ巌谷の随筆集『七月子』によれば、伊藤整は戦後、疎開先の北海道から引き上げ、一時期、日野に住んでいた。畑の真只中の一軒家。そのころ日野の駅はホームに屋根もなく、電車が停まっても、二三人が乗り降りするような寒駅だった。いちおう、中央線である。
届いた「サンデー毎日」の今週号、パラパラめくっていたら、ふだん目にしないページ「会社の流儀」の見開きページに、知っている人が社長の名で写真が載っている。ここ数年、つきあいがなくなっているが、古本つながりの一人「つん堂」さんだ。従業員370名、売上げ118億強のパッケージメーカー企業の社長さんだったのか。またお近づきになりたいものだ。
大相撲が終わったおかげで、4時ごろからしこたま呑み始め、一度沈没、深夜起きて、また呑み夜明けに眠るという無頼の日々がなくなった。大相撲が一年中続けば、ぼくはあと1、2年で廃人だ。