8月は月刊の締め切りが早まる。「古通」の取材をせねば、と早稲田へ。ようやく「古書ソオダ水」へ行けた。60~70代の元文学青年が始めました、というようなびしっと純文学と古書の品揃えで、しかし店主は若い。レジで関西弁で喋っていたような感じがしたが、どうか。お金を払う段になって少し言葉を交わす。くわしくは「古通」で。先月いっぱいで閉めた「三朝庵」を見て、サン毎へ移動。本えらびをする。ここまででかなり消耗。夜の西八王子が、地の果てのように遠く感じたが、カレー店「奈央屋」でこの夜「世田谷ピンポンズさんライブ」が開かれるについては、いささか関わりがあり、どうしても行くつもりでいた。しかも、プロデュースが、この秋、ぼくの絵画の個展を開いてくれる画廊のオーナー高橋さん、とあっては。行くと、地元のシバさんが来ていて、「陽だまり」の話から、当時の永島慎二アシスタント時代の話をあれこれ聞く。貸本マンガは原則、原画は返却されず、単行本化のとき、印刷されたマンガからトレースして版を作る。「陽だまり」をトレースしたのは、なんとシバさんであった。「しかも、永島さんが言うには、トレースする時、デッサンの狂いをちゃんと直して、きれいな線でやれ」と言われたという。そのほか、いろんな話を聞いた。メモしておけばよかった。ピンポンズくんのライブは急きょ、であったが、あちこちから聞きつけ、ファンの女性客が詰めかけ、立ち見続出の満員電車状態に。身内的心づもりでいる私は、席を譲り、厨房に入って声援を送る。しかし、冷房が届かず、熱気と湿気に包まれ、途中から「熱中症」っぽくなる。ライブが終わると、フラフラになって帰還。ちゃんとピンポンズくんに声をかけたかどうか記憶にない。
あ、シバさんの話で追加。永島プロは「地獄プロ」と呼ばれた。四畳半だか六畳間に、村岡栄一、向後つぐお、シバなど(『若者たち』のメンバー)アシスタントが机を並べて仕事をしていた。クーラーはない。夏、編集者がうっかり、その机に手をついて「あっつい!」と叫んだ。日に焼けた鉄板のようになっていたのだ。無我夢中で仕事をしているシバさんたちは、べったり腕をつけながら、気づかなかったという。「柔道一直線」「トリプルA」など、売れっ子で超多忙時代の永島さんのアシスタントは、ほとんど眠る時間がない激務だった。向後つぐおは、いつのまにか、ペンがケント紙からはずれ、脇の机の上に走らせていた。あるいは、大山学であったか、ダイナマイトを体に巻き付け、これから火をつけるというシーンで回って来た時、すでにダイナマイトにみんな蝋燭の炎のように火が点いていた。みんな、フラフラで、判断能力を失っていた。当時、仕事を断れば、それっきり仕事は来なくなると言われていて、どんどん引き受けていた永島さんだったが、ついにエンストを起こし、すべてを投げ出した。「柔道一直線」も最後、ペン入れをして仕上げをしたのはシバさんたちで、作画担当は別の漫画家に変わった。