「旅する本の雑誌」が本の雑誌社から新刊で出ている。http://www.webdoku.jp/kanko/page/4860114167.html表紙は牧野伊三夫さん。当初、書く予定はなかったが、牧野さんの推薦で、ぎりぎりロスタイムというようなスケジュールで私も一文を寄せたのである。その見本が届いて、牧野さんとメールのやりとりをしていたら、「おかざきさん、大根いりませんか?」と言う。急きょ、昨夜、牧野邸へ行き、ついでにミニ酒宴。大根は、どこからかもらったのだと思っていたら、駐車場となるべきエリアを菜園にして、牧野さんがそこから引っこ抜いている。2本もらった。「葉っぱは?」と言うので、「葉っぱはいらないですよ」と、「ええっ、乾かして振りかけにすると美味いんだけどなあ」と。枝豆(これも牧野菜園)、木綿豆腐の冷や奴、大盛り自家製ポテサラ、濃い味付けの出汁巻き卵を大量の大根おろしをつゆに入れたのに浸けて食べる、そしてビーフンの炒め物と料理が続く。ビール、ホッピー、最後は杯ボール。例によって、絵のこと、業界のこと、知合いのことなど、いろいろじっくり話せてよかった。牧野邸を辞するとき、ぼくはいつも「じゃあ」と言うと、それっきり振り返らないそうで、「振り返らない岡崎さん」と玄関で言われて、この日は、一回だけ振り返る。「あ、振り返った」と牧野さんの声。
ぼくは、一緒に電車に乗っていて、知合いが先に降りる時、じゃあと言って挨拶して、ドアが開く時、またちょっと振り返って頭を下げて、電車が走り出す車窓で、また挨拶されるというダンドリが、これは何だろう、面白い習慣だとずっと思っていた。永遠の別れではないんだから、あっさりでいいんじゃないかとちょっと思うのであった。ほかの国の人はどうなんだろう。「私はさようならを言う時、いつも少しだけ死ぬ」という意味の曲がありますね。日本の「さようなら」が、「もしどうしてもそうしなければいけないなら」という意味を含むサヨナラの言葉であることを感動したのはイザベラ・バードであったか(違っているかもしれない)。しかし、これは俗説という指摘もある。
マイルス・デイビス「ネフェルティ」を大音量でかけながら、この日、ついに地下でもクーラーをつけた。降参、である。