私の新刊、新講社より『人と会う力』が刊行される。書き下ろしによる長編エッセイ。「人と会うことでぼくは作られてきた」体験と、さまざまな事例を引いて、「人と会う力」について考えた本です。来週あたりから大きな書店には並ぶと思います。ちょっと手に取ってみてくれるとありがたい。
https://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refBook=978-4-86081-567-7&Sza_id=MM
昨日は三鷹「松乃家」でとんかつ定食(豚汁をふんぱつ)、「上々堂」まで歩いて、補充と精算。探している本があったが、自分の棚に見つけ確保する。近藤富枝『馬込文学地図』だが、家のどこかに、あと1、2冊あるはず。「盛林堂」にもちょいと寄る。九段下へ移動。グランドパレスホテル最上階レストランで、坂崎さんと待ち合わせ。『人と会う力』見本を受け取り、注文のあった20冊(東京堂さん、いつもありがとう)にサイン、落款、この本のために用意した寅さんチームのイラストを入れる。うまくいったのといかなかったのと。ホテル23階の「クラウン」は眺めもよく、静かで、コーヒーもおいしい(お代わりできるのか)。九段下近辺で、人とじっくり話せる喫茶店が少なく、ここ、ということになる。
そのままサンデーへ移動、本選びをする。こんなふうに、効率よく、スケジュールが運ぶことは珍しい。受け取った『人と会う力』見本10冊が重たいので、おとなしく帰る。スーパーでビールとつまみを買い込み、自宅で、一人祝杯を上げる。帰りの電車でパラパラ自著を読みながら、あ、あのことを書き忘れた、まだあの人のことを書いてないぞと思い出される。もし、万が一、ベストセラーにでもなったら(望み薄ではあるが)、第二弾を書きたい。「ARE」や「SUMUS」のこと、「飾粽」のこと、それに「栞会」のことや、「中川フォーク・ジャンボリー」などのことも、書きたかったのである。「トキワ荘」の話も。本当は『人に会う力』に書くため用意していた赤塚不二夫赤塚不二夫120%』を読んでいたら、これまで読んで重複する話も多いが、やはり寺田ヒロオとの再会の文章が胸に迫る。「トキワ荘」の兄貴分、テラさんは、早く筆を折り、茅ヶ崎の自宅で世捨て人のような暮らしをしていた。とは知っていたが、自室に閉じこもり、食事も奥さん(中村八大の妹)が渡り廊下の上がりがまちまで運び、食べ終わったらお盆を外へ出しておく。家族との会話もなく、誰にも会わず、ずっと焼酎を飲んでいたらしい。平成4年に62で死んでいった。ぼくは寺田ヒロオ『背番号〇』が愛読書で、いっとき何度読み返したかわからない。
以下、ウィキペディアから該当個所を引いておく。
「他界する約2年前の1990年6月23日、突然トキワ荘の仲間(藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄石ノ森章太郎赤塚不二夫鈴木伸一)を自宅に呼んで宴会を催し、終了後、三々五々去ってゆく仲間たちにいつまでも手を振り続け、「もう思い残すことは無い」と家族に話したという。翌日、藤子Ⓐは礼を伝えるため寺田宅に電話をかけたが、寺田はもはや電話口に出ず、妻を通じて「今後一切世俗とは関わらない」との旨を伝えた[6][4]。なお、この宴会の模様は鈴木がホームビデオで撮影しており、後年ヒストリーチャンネル制作の番組『20世紀のファイルから−証言・あの時、あの人−』(第29話:マンガがすべてだった・「トキワ荘」の頃)[7]で一部が公開されている。鈴木はこの時に撮影したビデオのコピーを寺田に進呈しており、遺族の話では彼は晩年そのビデオを繰り返し観ていたという。
晩年は一人自宅の離れに住み、母屋に住む家族ともほとんど顔を合わせることはなかった。朝から酒を飲み、妻が食事を日に3度届ける生活を続けていたが、朝食が手つかずで置かれたままになっているのを不審に思い、部屋の中に入ったところ、既に息絶えているのが発見された。妻は晩年の寺田について「身体が悪くなって、病院に行ってくれと頼んでも、行こうとしないんです。色々手を尽くして、あきらめました。この人は、もう死にたいんだなって…」と、ただ見守るしかなかった状況を語っている[4]。
墓は茅ヶ崎駅を降りて海とは反対側に車で10分ほどの浄見寺という大岡越前墓所でもある浄土宗の古刹にある。戒名は「博譽残夢漫歩居士」[1]。」
いつか寺田ヒロオの墓に行って手を合わせたい。「浄見寺」へは、最寄バス停「堤坂下」まで茅ヶ崎駅からバスが出ている。意外に、妻の実家からも車ならアクセスできそうで、その手もある。なんだか、とっても、テラさんの墓に参りたくなってきた。いつもこうだ。
寺田ヒロオの墓のことが、川本三郎さん『今日はお墓参り』に書かれてあると知り、読んだのに忘れたか、家で探すより図書館だと、近くの図書館で借りてくる。さすが川本さん、くわしく調べて、奥さんと娘さんにも会って話を聞いている。『めくらのお市』の棚下照生が、「トキワ荘」以外でもっとも親しかった友で、この棚下にも取材、興味深い証言を得ている。寺田の断筆は、売れるものを優先する漫画界に絶望した、となっているが、棚下によれば「きれいごと」で、「描くことがなくなってしまったんだ、もう」と言う。大のネコ好きで、可愛がっていたネコが死んだ後、酒を飲み、泣き暮らしたというから、それも「緩慢な自殺」(藤子不二雄Aの言)の原因かもしれない。
一緒に借りて来た水野英子トキワ荘日記』(トキワ荘通りお休み処でも販売中)によると、水野がトキワ荘入りした昭和33年には、すでに寺田ヒロオは結婚して、別のところへ新居を構えていたが、トキワ荘へはしょっちゅう来ていたため「最初はてっきりお住いだと思っていた」と書いている。水野にとって「貫禄のある大人」で、近寄りがたい存在だったとも。市川準トキワ荘の青春」をまた、観たくなった。
川本さんが『今日はお墓参り』を「太陽」で連載していたのは、1997年1月号から。寺田ヒロオはトップにあるから、取材は前年の1996年だろう。すでに22年たっている。