ちょっと外へ出たくなって、高円寺「中央線展」を覗こうと、昼飯を食べて最寄り駅の改札を、スイカ機能つきカードの入った財布でタッチするも赤ランプ。再度挑戦したがダメ。あれえ? 戻って財布を調べたらカードがない。どうしたことだろう。あれこれ思いめぐらして、あ、そうか。一昨日、駅窓口で大阪行き新幹線の切符を買ったとき、カードを使ったのだった。あのとき、窓口から離れ、少し手間取って、どこかへ置き忘れたか。まあ、とにかく高円寺へと、切符を買って乗り込んだら、携帯に、昨日から継続して着信のある電話が。変な、インチキなカード会社かと思って、すぐ切っていたが、「!」と気づく。そうか、カード会社に、紛失物として届いていたのだ。ひと駅進んで折り返し、駐輪所で自転車を拾って帰宅。着信のあった番号に電話すると、やはりそうであった。こんなささいなアクシデントでも、大いに動揺し、悪用されていたらどうしようなどと意気消沈する。なんと、小さな人間か。ちょっと手間と費用はかかるが、無事、カードは更新され、届くことに。それでもまだ、住所や電話番号を言ったから、このカードを拾った地下組織に悪用され、個人情報を安々と言ってしまったのでは、と疑念が消えぬ。なんと、小さい人間か。
このところ、4時ごろから大相撲を見始め、5時ごろから、湯豆腐その他で酒を飲み始める。悪い習慣なり。6時にはもうすっかり出来上がっている。その所業に罪悪感を感じる。なんと、小さい人間か。
樋口一葉に聞く』を読了。いろいろ教わること多し。たとえば一葉は、若くして父親を失い相続戸主となるが、そうなると婿を迎える以外に結婚する方法はなくなる。貧しい家の戸主になった娘はみじめである。あるいは、「たけくらべ」を明治の東京の下町の話と思うのは早計で、じつは、明治20年代の竜禅寺かいわいは、田畑の広がる「半農」の地域と考えた方がいい。前田愛の「明治時代の人というのは、なにか一年前とか一年度というのに非常にこだわった」という指摘も新鮮であった。一例は、『金色夜叉』寛一の「来月の今月今夜のこの月は」のセリフ。現代で、こんなことを言う人はいない。一葉の妹・邦子(写真では、一葉より美人)も面白い。礫川堂という文房具店の店員と結婚するのだが、邦子が同店へ行ったとき不慣れな店員がいて、「見ていられなくて、店の仕事を手伝って」結婚したという。