夢のなかにときどき出て来る古本街があって、千林・今市商店街がモデルとなっているようだが、そこにいくつかの記憶が組み合わさり、独自の街を形成している。また来たな、と思う。アーケードがなく、カーブした通り。昔から行っている一軒が、店は開いているが、通路が段ボールの山で塞がれ、中に入れない。声をかけると店主が出てきて、「あのう、昔よくこの店に」と言うと、段ボールを撤去、中へ入れてくれた。いろいろ話をしながら棚を見るが、さあ困ったぞ、買える本がない。主人とコトバを交わしながら汗が出てきた。すると、店が開いてるのを待ちかねたように次々とお客が入ってきて、それにまぎれるように外へ出る。なんという小さい人間か、と思う。あと、信じられないほど不味いスイカを、長野の大きな家で、たくさんの若者と同居する綾野剛と食べるシーンも出てきた。夢はいつもリアルに変である。
NHKで連続ドラマ「赤ひげ」が始まったが、赤ひげ役の船越がどうにもいけない。眼光鋭い、というのが赤ひげの特徴なのだが、船越はその目が細いため、力がない。映画「赤ひげ」の三船敏郎のまずいものまねで、しかもほとんど演技が単調。深みも威厳も、三船が醸し出したユーモアもない。パロディを見ているみたいだった。60代の緒形拳で、見てみたかった(原作では40代の精悍さと60代のなんとかを兼ね備えた、みたいな年齢設定)。
『座談会昭和文学史 二』の「宮沢賢治」の章で、ロジャー・パルバースが面白いことを言っている。「もし、宮沢賢治に担当編集者がいたら、その作品は違ったものになった可能性があります。そしてこれほど有名にならなかったでしょう。編集者がいなくてよかったんです(笑)」。また賢治の文章は「下手くそ」とも言っている。出版社の編集者、浅い宮沢賢治ファンはこれを読むと憤るかもしれないが、言っている意味はわかるはずだ。あの独特な語法、用字用語、オノマトペなど、編集者あるいは校正者が、本来はこういうふうな意味、こういうふうに書くのが普通、などと手を入れ出したら、それはもう宮沢賢治ではなくなる。もちろん、これは特殊な例ですよ。
『スチィール・キス』は読了。ぼくはもう、ライムシリーズは、不要かもしれない。おもしろくなかったというわけではないですよ。さすが、ではある。しかし、満腹してしまった。松家仁之『光の犬』にとりかかる。
新潮文庫漱石作品のカバーが順次、安野光雅イラストに代わっていることは知っていたが、今日、『倫敦塔・幻影の楯』もそうだと気づいて、買ってしまう。『坑夫』はどうだったっけ。
京都に住む妹が、京都に来た角田光代さんのトークショーを聞きに行って、角田さんに挨拶した由。「めちゃくちゃ、ええ人やったあ、可愛いし」と報告してきた。そうか、そうか。