昨日は午後から雨。春の雨はやさしいはずなのに。その前に、ちょいと自転車で国分寺。「七七舎」の均一で一冊。キタムラくんは忙しそう。でも、ちゃんと客がついている風で、店に活気あり。ついでに「雲波」へ寄ってみる。店主・佐藤さんの急逝の報を聞いたのが昨年。しばらく店を閉じていたが、一緒に店に立っていた奥様が継がれて、1月から開けてらっしゃると聞いたのだ。店へ入り、挨拶し、コーヒーをいれてもらい、しばらく佐藤さんのこと、店の今後のことをうかがう。佐藤さんの死は、本当に急なことだったらしく、しばらく茫然と生きてらしたと涙ぐんで話してらした。なにかお手伝いできることあれば、と言い残して店を去ったが、自転車を走らせながら、なんともいえない気持ちになった。
山藤章二『自分史 ときどき昭和史』岩波書店を読んでいたら、こんなところが。山藤は芸大受験に三度失敗し、まだ大学の認可を得ていない町の画塾のような武蔵野美術学校(のちのムサビ)に入る。同級生のレベルの低いのにがっくりくるが、こいつはと目をつけたのが二人いた。山藤は腕試しに、1957年広告デザイン界の直木賞とも言うべき「日宣美」展に応募、みごと「特選」を得る。一緒に「特選」になったもう一人が、田名網敬一。ムサビで山藤が「こいつは」と目をつけた一人だった。この時、「グランプリ」が和田誠。三人ともそろって二十歳(ズレても半年ぐらい)というので話題になったという。薄めて10万人作れるぐらい、濃い才能の集中だ。よく凡才を慰める時、才能じゃない努力だよ、と言うが、こういう事例を見ると、いややっぱり才能だよ、と言いたくなる。
詩集『風来坊 ふたたび』制作に関わってくれている扉野良人くんと、何回かメールのやりとり。『風来坊』という本を、古本屋均一で見つけ、送ってくれるという。どうやら旅行記らしい。扉野くんが還暦になるのは13年後だという。ぼくはそれまで生きているだろうか。