来年2月に、中公文庫入りする『古本道入門』の打ち合わせ。担当編集のFさんに、国立「ルノワール」を指定すると、電話有り。「おかざきさん、ルノワール、なくなってるみたいですよ」。ええっ? あれ、検索すると本当だ。国立「ルノワール」短い命だったなあ。あわてて「コメダ」を指定。打ち合わせ以外の出版界の話、いろいろ聞く。「売れる本があるから、ぼくみたいな者でも本が出せる」と言うと、Fさん、「さいきんはそうもいかないんです。一冊いっさつに勝負がかかっていて、結果を厳しく求められる」と言う。自分の甘さを痛感する。
海野弘『歩いて、見て、書いて』は副題「私の100冊の本の旅」という副題がつく、書き下ろしの回顧で、2006年に右文書院から出た。編集者青柳さんからの手紙が挟まっている。この年、出版イベントを手伝わせてもらったのだった。あこがれの先輩もの書きだった海野さんと直接話せた悦びを、まだ忘れていない。それが11年も前のことか。ひさしぶりに再読していると、68年から美術とその周辺でパイオニア的評論活動を始めた海野さんと、編集者との幸福な出会いが綴られている。1982年リブロポート『ワイルド・ウェスト物語』は、石原敏孝。「ユニークで売れない本を平気でつくってくれる編集者」と書かれている。右文書院にいた青柳さんもまちがいなくその一人。本書成立にはナンダロウ「河上進」アヤシゲさんも関わっている。ああ、そうだったなあ。
「七〇年代から八〇年代の半ばぐらいまでは、編集者同士、そして編集者と筆者が友だちのように親しかった時代であった」とも書く。70年代末から80年代、雑誌が元気で、各種PR誌も冒険的な企画の原稿をどんどん依頼した。それに応える力があったからこそだが、海野さんの幅広い評論活動はその上に成り立っている。
ぼくも、かろうじて、その硬い文化岩盤の終りの先端ぐらいになんとか引っかかって、優秀な編集者に、これまでたくさん本を作ってもらった。もう、あんまり思い残すことはないのである。この先、後進たちのために「ユニークで売れない本を平気でつくってくれる編集者」が現れるだろうか。
何もかも恵まれた海野さんのようだが、1983年の西武美術館での「芸術と革命」展では、口約束が守られず、屈辱的な目にあっている。あやしげな企業文化と、それにぶらさがる海千山千に「あっさり切捨てられた」という。いろいろ、考えさせられる再読であった。これ、いい本ですよ。