昨夜、ぶじ「中川フォーク・ジャンボリー6 浅川マキの夜」をにぎにぎしく終える。ホッとした。客席はぎゅうぎゅうづめ、さぞ肉体的に大変だったと思う。申しわけないです。しかし、さすが浅川マキの至近にいたお二人だけあって、見たことのない浅川マキの素顔に触れた気がした。寺本さんによれば、デビュー曲「東京挽歌」は石坂まさを作詞・小林亜星作曲のプロモーションで、有線やレコード店を浅川マキと回ったという。このとき、浅川マキはミニスカートを履いていた。「脚がきれいでした」と萩原さん。浅川マキが歌っていた「銀巴里」へ、寺山修司を連れていったのも寺本さん。2、3曲聞いて、寺山は「この歌手はすごいね」と一発で気に入り、肩入れした。その肩入れ度は、13曲をすぐさま書き下ろししたことでもわかるが、寺本さんによれば、その後も、浅川マキのために書いた詩稿が束になって届いたという。浅川マキが美空ひばりが好きで、その歌唱力を認めていたという記述が資料にあったが、寺本さんによれば、「リンゴ追分」か何かを、浅川マキが鼻歌でうたったことがあったという。「すばらしいものでした」と寺本さん。萩原さんがひょうひょうとして、笑いを誘う発言をされていたのも印象に残る。浅川マキは麻雀が好きで、新婚なのに萩原さんがよく呼び出された。山下洋輔と麻雀をしたこともあるとエピソードを語ってくれた。メモしておけばよかったが、そのほか、貴重な話ばかり。名古屋での最後になったライブにも、寺本さんは駆けつけ、渋谷毅のピアノとともに、すばらしく出来のいいステージで、また浅川マキとの新しい展開を構想されていたが、次の日のライブに出てこない。ホテルで亡くなっていたのだ。
打ち上げも盛況。ぼくはもう入る余地がなく、受付を手伝ってくれたみさきたまえさんと、台所で、ずっと飲みながら喋っていた。