夏葉社から届いた新刊、黒田三郎『小さなユリと』(1960年に昭森社から出た詩集の復刻)を、大事に読むため、緑陰をサンポしながら持ち歩き、駅前のカフェでアイスコーヒーを飲みながら、じっくり読む。スマホ漬けになっている連中を憐れみながら。こういう時間が大切なんだ。黒田三郎は、いわゆる「荒地」派の詩人、ということになるが、一般的には、紙ふうせんが歌った「紙風船」の原詩者として知られる。
『小さなユリと』は、幼い娘との日々(夫人は結核で入院中)を謳った連作詩であるが、挟み込み栞解説「詩人のひとりごと」(すばらしい文章)で荻原魚雷さんが明かす通り、「ユリ」とはリアリティを持つ、仮構の存在である。それでも娘に注ぐ父親(しかもだらしない)の眼差しは、その愛情と哀切は本物である。かつて幼かった娘を持つ父親だったぼくは、普通の気持ちでは、これらの詩を読めない。だから、父親になった島田くんが、この詩集を復刻しようとした気持ちもよくわかる。わずか60ページほどの小さな詩集だが、小さい詩集でなければ、慰められず、また鼓舞されないものがあると、『小さなユリと』を読みながら思った。現代詩文庫版『黒田三郎詩集』に、この全編が収められており、読むにはこちらで読めるが、娘が描いた父親の顔をあしらった装幀の、この詩集の重さ、軽さにはとうてい及ばない。小さな詩集は実存が本質を乗り越え、人を脅かさず、ただただ寄り添ってくる。魚雷さんも言っているが、むしょうに詩を読みたくなる時があるもので、詩集を読まない人を読書人と呼べるか。
最終詩「小さなあまりにも小さな」の最後の三行にしばらく目が止まり、アイスコーヒーの氷をカラカラいわせながら、時間も止まる。
「歩いているうちに/歩いていることだけが僕のすべてになる/小さなユリと手をつないで」
挟み込み栞に使われた写真が、まさしく黒田三郎が小さな娘と手をつないで歩く写真で、平静な気持で見ることができない。ぼくもまた、幼い娘とじつによく、手をつないで歩いたものだ。ときに歌をうたいながら。小学校へ上がる頃か、ある日、いつものように手をつなごうとすると、習慣で娘が手を伸ばし、ハッとするように、ふりはらった時のことを覚えている。夢に出てくる娘は、いつも、手をつないでいた頃の娘だ。
この詩集をカバンに入れて持ち歩けば、その日、多少イヤなことがあっても、くぐり抜けられるだろう。「なぜなら、私のカバンには、いま『小さなユリと』が入っているんだから、どっからでもかかってきなさい」と言えるだろう。島田くんの出版の仕事は、意表をついているようで、じつに鮮やかに納得のいくものだと改めて思った。
忘れていたこと。中川フォークジャンボリーを後援してくれている「雲遊天下」の五十嵐くんによれば、いま出ている「高田渡」号は大評判で、そろそろ在庫が切れるとのこと。これは本当によくできた特集号で、渡ファンはすぐさま、注文してください。