玉川上水と『庭のつるばら』

okatake2014-08-05

このところの習慣。午前中早いうち、自転車で児童公園まで行き、自転車を停め、そこから玉川上水を一時間ほど歩く。どこまでも続く緑陰、水の音、土の道は、北多摩地区の宝で、こちらも恩恵にあずかっている。上水の両側に道があるため、右か左か、上水のこちらかあちらか、いくつもコースがある。だいたい30分歩いて、少し休憩し(サーモスの水筒に氷とお茶)、ベンチで庄野潤三を少し読む。『貝がらと海の音』に始まる、夫婦二人になった庄野家の記録を、ぼくはリアルタイムの1990年代から2000年代、正直に言うが、よい読者ではなかった。30代、まだ旺盛な活力が当方に残っていたからである。庄野家に出入りするようになり、50代も後半を迎えた今、ようやく庄野さんの晩年の文章が、心地よく、静かな音楽を聞くように、読める。楽しい読書だ。
今日は多摩川からの放流口(小さな瀧と池あり)で休憩。白い鯉が一匹泳いでいる。橋の反対側、水に足を浸す。汗が出る。
「夏葉社のうた」にようやく曲をつけて完成。曲を作るなんて、30年以上ぶりか。Cメジャー系、ミディアムワルツの曲。詩も少し書き足し、曲に合うよう、全体に調整。次回の古本バンドのスタジオ練習で披露する。本番にまにあうか! エレキギターセットについていた教則本で、Cメジャー系のスケールポジションを知る。なるほど、これで簡単なリードはつけられそう。
思い出したこと。先日の庄野家の集りで、帝塚山学院のYさんが、庄野潤三作品におけるタイトルについて、ある提起をした。『夕べの雲』は、最後にちょっと「夕べの雲」が出てくるだけで、作品全体では、あまり関係ないタイトルで、それが庄野文学におけるタイトルのつけ方の特徴だ、というのだ。『ザボンの花』もそう。庄野潤三研究家の上坪くんが、庄野さんの初期詩作品に「夕べの雲」というタイトルの詩があると指摘。しかしYさん曰く、それより前に、前例があるという。ちょっと細かく覚えていないので、くわしく書けないが、ううむとうなりながら聞いていた。晩年の作品も、文芸誌連載時にまずタイトルを決めて書き出すわけだが、新潮の鈴木さんも、「『うさぎのミミリー』などは、最初聞いてどうなるのか、と思いました」とおっしゃっていた。もう、今はそれが当り前のように思っているが、たしかに文芸誌の連載タイトルで『うさぎのミミリー』は破格だ。しかし、けっきょく、それがいかにも庄野作品らしいタイトルに思えてくる。
帰り、上坪くんと電車のなかで、庄野文学におけるタイトル、というのはじつに魅力的なテーマだなあ、と話す。