風は冷たいが、おだやかな冬の日がつづく。昨日はおもいたって、ひさしぶりに野火止用水を歩く。東大和駅前に自転車を止め、わざわざ西武線で萩山、八坂と乗り換えながら八坂から東大和まで歩く(45分)。すぐ脇を低い小さな流れがある。途中、何ヵ所か、武蔵野の雑木林を保存したエリアが。間伐として切られた木が集められ、枯葉とともに小山を成す。近くに家があって、暖炉があれば、ちょうどいい薪になるのだが。西武国分寺線のフミキリを渡ってすぐのところに、え、こんなところにという感じで懐石料理店が。あとで調べたら、うなぎ・うどん店や、レストランなど高級店が何軒か集まっているみたい。ちょっと立ち寄って腹ごしらえ、というような店ではない。
東大和駅前のビル(ボーリング場やゲームセンター)に初めて入ったが、「TSUTAYA」があり、DVDコーナーに「時間ですよ」が揃っている。これは!と驚く。ここはちょっと遠いので、国立店にあれば、会員になって借りよう。
八坂へ行く電車内で、これから成人の日式典に参加する若者二人と隣り合わせる。「ひと駅で座るかよ」「いいじゃん、空いてんだから」「式、一時間ぐらい?」「そのあと一次会だろう」「いや、おれ、ちょっと気になる娘に、声かけててさ。だから、一次会、出れない」「ほんとかよ。誰だよ」「おまえ、知らないよ」なんて、若い若い会話を盗み聞きする。ぼくは、ちょうど彼らの頃、心にわだかまりがあって、成人の日、式典に参加しなかった。
このあと玉川上水沿い「こもれびの足湯」(満員だった)で三十分ほど、足湯につかりながら『単純な生活』を拾い読む。これが出たのが1989年2月。このとき、まだ阿部昭は生きていたのだ。同年5月に死去。享年54だった。河盛好蔵『回想の本棚』に梶井に関する文章があり、河盛は梶井と同じ時期、三高へ通っている。梶井のことは知らなかったようだが、盟友の中谷のことは知っていた。梶井たちが歩いた吉田町から京極への散歩コースは、河盛もまた歩いたコースだった。こんど、京都へ帰ったら、歩いてみようと思う。河盛は2000年に死去、100近くまで生きていた。梶井が同様に長生きなら、顔を拝むことも可能だったと思うと変な気分だ。長生きした梶井と京都で出会う話を、どこかに書いたのだった。