珈琲とエクレアと詩人

okatake2011-04-17

おくればせながら築添正生『いまそかりし昔』(りいぶる・とふん)を読み始めて、日曜の午後、ほっこりとぜいたくな時間が流れる。
「詩の時間」という文書に、母の遺品から見つかったという、手書きによる佐藤春夫の詩「ねがひ」が引用されている。最初の一連を引く。
「大ざつぱで無意味で/その場かぎりで/しかし本当の/飛びきりに本当の唄をひとつ/いつか書きたい。/神様が雲をおつくりなされた/ 気持が今わかる」
いい詩だ。
遺品のなかから見つかったという、この詩を墨で書いた(作ったのは佐藤、ですよ。念のため)のが、詩人で画家の(と肩書きをつけることが無駄なのだが)小島凡平。ネット検索で知ったのだが、凡平は故郷松山を、相続すべき財産を弟にゆずり、山羊三匹(品川力『本郷・落第横丁』では一頭)つれて東京まで歩き、そのあと芭蕉の跡を訪ねて全国を行脚したという。60歳で画家を志して上京、74歳で夢破れて故郷に帰る。築添さんが子どもの頃、この凡平さんから詩を教わったというのはこの頃か。「週刊朝日」など、週刊誌がこの奇人の放浪者を取り上げたという。玉井葵『凡平』(創風出版社)が2000年に出ていて、いまでも手に入る。
西荻から帰ったら、「港の人」から橋口幸子『珈琲とエクレアと詩人』が届いていた。夕方のリビングのソファに寝転がって読み出したら、最後まで読んじゃった。幸子が「ゆきこ」と読むことから途中でわかった。彼女は、鎌倉そして横浜時代の北村太郎と、近しくつきあっていた人。校正の仕事をしている。鎌倉の家は、例の田村隆一夫人と北村太郎が一時住んでいた家で、彼女もそこに住んだことがある。そして北村太郎はそこを出る。晩年の孤独と、若い人たちとつきあって華やぐ詩人。ねじめ正一荒地の恋』のB面みたいな話なのだ。どれも詩みたいに短い話が、順に並べてあって、著者の北村太郎への深い敬愛と共感、親密さがうかがわれて、胸に沁みる。叙情的な詩的文体を使わず、事実を書こうという姿勢が、かえって気持ちいい。タイトルは、北村太郎が小町通の喫茶店で珈琲とエクレアをいつも食べていたからで、食べる話がたくさん出てくるのも特徴だ。いつも北村を気づかい、手が及ばないところは、あとで悔やんだ。北村の掃いてる靴が痛い、というので、とっさに自分が履いているナイキのエアシューズを脱いで履かせた。自分はスリッパで帰った。履いてる靴を渡すなんて、ちょっとできそうにない。それが自然にできる関係であったし、できる人間だったことが、この本を暖かくさせている。いい本だと思った。急にエクレアが食べたくなり、夕食後の買い物のとき、妻が持つセルフかごに、そっとエクレアを入れた。