旅の宿だったね

「上京する文學」5、菊池寛について書く。
午後、外出。「古通」取材のため、大井町から戸越公園。そこから歩いて戸越銀座へ。古本屋を巡り、戸越銀座温泉に入る。夜は神保町。「彷書月刊」謝恩会に出席。知っている顔がたくさん。こういう会なら出たい。最後に堀切利高さんが挨拶。これがよかった。石原くん、佐藤助教授と締めで「さくら水産」。石原くんからは黒岩情報、佐藤くんからは、ハンセン病、盲人の貴重な話を聞く。
また、拓郎の話で恐縮ですが、「朝日」土曜日のbeうたの旅人で、「旅の宿」が取り上げられていて、あれは岡本おさみの新婚旅行で、十和田の「蔦温泉旅館」へ宿泊したときの体験を、歌にしたものということ。拓郎ファンのあいだでは衆知の事実で、岡本おさみの泊まった「66号室」は、拓郎ファンがわざわざ、年に十組ぐらい、指定して泊まりにくるらしい。そんなことも知らないなんて、自分ではA級の拓郎ファンのつもりでいたが、じつはB級、いやC級ぐらいだったんだ。
ちょっと、待てよ。ぼくが家族で、もう十年近く前、泊まったのは蔦温泉旅館じゃなかったか。そのときは、「旅の宿」の舞台になったとは、ちっとも知らなかった。まだ娘が小さくて、一緒に露天風呂へ言ったら混浴だったことを覚えている。娘は、岩場でつるりと滑って転んだ。若い女性が、混浴とは知らずに入っていたらしく、あわてて脱衣所に逃げ出した。娘がその女性に何やら話しかけて、こっちはもう湯船に使っていたが、声だけが聞こえた。そうか、あれは「旅の宿」の宿だったんだ。
宿の窓から見える月を「上弦の月」だと教えたのも、天文学マニアの岡本おさみ夫人だったらしい。

昨日宮前商店街途中にある「いづみ」書店さんで、宮園洋『洋さんのあっちこち』れんが書房新社を買ったのだが、これが追悼集で、そこで初めて宮園さんが2001年1月事故で亡くなっていたことを知った。享年51。何度か書いたが、上京当時、「飾粽」という詩誌に参加し、著名詩人や才媛たちにまじって、亀のように首をちぢこめていたのだが、細密な絵を描き、装幀もする宮園さんに優しい言葉をかけてもらったのだった。この本を読むと、一時期「思潮社」にもいて、ぱるこぱろうるの初代店長でもあった。長男をやはり事故で亡くされたり、つらい目に遭われたようだ。ぼくは、宮園さんと会っているとき、なんにも知らなかった。国学院大学では嵐山光三郎さんの一年後輩で、一緒に大学祭のパンフレットを作った仲だそうだ。

彷書月刊」の会では、最後に堀切利高さんが挨拶。「彷書」の創立メンバーで発行人でもあった方で、名のみ知るが実物を見るのは初めて。訥々としかし淀みなく、いい話をされた。ペリカン書房品川さんは、女性のいる編集部に顔を出すことを「星座を巡る」と称してらした。堀切さんが「彷書月刊編集部にも若い女性がいますよ、おいでください」と言うと訪ねるようになった。この夜の会にも挨拶されたが、初期「彷書」を支えた女性編集者お二人で、品川さんは二人を「双子座」と命名したらしい。「創刊したころは、せめて3年続けたい。5年続けられればと思ったが、25年も続くとは夢のようです」ともおっしゃった。感動した。