活字と自活

okatake2010-07-12

昨日、高円寺を経て西荻ブックマークへ。高円寺即売会では、なんだか安い本ばかりごちゃごちゃ買いました。石原慎太郎『わが人生の時の人々』文春文庫は、そんな本が出ていたとは気づかず、買った。文壇、政界、芸能界の交遊、回想記なのだが、こういうのは面白いに決っている。芥川賞授賞式の日が新婚旅行の初日で、出るつもりはなかったが、人に言われて、花嫁を伊豆の旅館に置いて出席したという。直木賞受賞者の新田次郎邱永漢と一緒に写ってる写真も、石原だけが股を広げてふてぶてしい。「あの席の中でこの私だけが芥川賞なる文学賞が何たるかをてんでわかっていはしなかったということである」。やっぱり、このころの石原慎太郎、ばつぐんにかっこよかったんだ。いまや、まばたきする顔を見るだに忌まわしいが。
西荻ブックマークは荻原魚雷くん『活字と自活』本の雑誌社、刊行キネンのトーク。お相手は百戦錬磨の闘将・向井透史くん。客席は満杯だった。とにかく、あの無口な(酔うと、あるいは知人に囲まれるとそうでもない)魚雷くんがこの日、約二時間、よく喋った。
魚雷くんは、高校生のころから中古レコード漁りをしていて、それで近接する古本にも手が出るようになった。入口はアナーキズム吉行淳之介も、父親のエイスケから入っていたというのが珍しい。「将来、なんか、革命したいなあ」と思う高校生だった。「将来、なんか××したいなあ」のフレーズの××に「革命」が入るところが魚雷くんだ。
竹中労みたいなジャーナリストになりたくてこの道を目指したが、あまりに竹中とは性格が違いすぎる。それを鍛えるために、ブラックジャーナリズムに身を投じる。そこで一年辛抱するつもりが、八カ月くらいで挫折した。あたりまえである。あとは出版業界のバイト、マンガのセ取りで食べていた。
魚雷くんは高円寺内で四つぐらい部屋を代わっているのだが、高円寺で部屋を探しているとき、都丸書店に入り、そこにアナーキズム文献がずらり揃っているのに驚く。探していた奥崎謙三の本を買って、喫茶店に入って読んでいたところ、店のマスターが「おもしろい本、読んでるなあ」と声をかけてきた。このマスターもアナーキストだった。これで高円寺にまいってしまう。この喫茶店にはその後も出入りし、よく「裏メニュー」のスパゲティを食べさせてもらっていたそうだ。
中央線の中野から吉祥寺、それに高田馬場ぐらいまでは自転車で移動。中央線沿線に住んでいるのに、中央線に乗らない。往復でかかる電車賃ぐらいで、当時、食と読をまかなっていた。「早く、自由に中央線に乗れる身分になりたい」と思ったというから、どんだけビンボーだ。
一時、古本屋になろうかと思ったこともあると告白。「彷書月刊」の田村さんに相談に行くと、「古本屋は、いろんなことをやってダメになってからもできる。もう少し、(ライターで)がんばってみたら」と励まされたそうだ。ここで田村さんに関するアナーキズムぶりが、魚雷、向井両氏から披瀝される。厳粛な場所に、なぜかバニーガール姿で飛び込んできたとか、すごい話だ。
向井くんは古本屋の状況、魚雷くんとの出逢い、「わめぞ」を始める前夜みたいな話を折り混ぜながら、たくみに魚雷くんから話を聞き出していた。途中休憩のとき、向井くんが「休憩時間に立て直します」と言ったが、魚雷くんは「いやあ、ぼくはすごくうまくいったなあ、と思った」。
向井くんの話でも興味深い点が多々あったが、例えば、大学が公費で古本をバンバン買っていたよき時代。年度末になると、道路工事が始まるみたいに、古本の注文があった。専門学校ができると、図書室に収める本が必要で、「なんでもいいから一万冊」というような注文があったという。向井くんがこの世界に入ってすぐくらいの話で、そのころは神保町の二代目、三代目の若い衆と遊びまくっていた。「いま、孤独な夜などに、あのころの金を少しでも貯金していたらと思う」と苦く笑っていた。
『活字と自活』は、そんな魚雷くんの苦闘が写し出されたコラム集。なるべく正直であろうとする。正直に書くと、たいてい情けない、後ろ向きになる場合が多いが、そこのところを身にあわせもったペーソスで巧みに読ませてしまう。それが魚雷文学ではないか。
 最後の文章がいい。
「冷静に自分の欠陥、欠点を見つめれば、できないことの範囲が定まってくる。/おそらく好きな仕事に就くことよりも、自分のやっている仕事を好きになることのほうが簡単である。
 そのことを昔の自分に教えてやりたい」

大事なこと、忘れてました。大好きな若夫婦「風船舎」が新しい目録を出しました。「月の輪」に続いて、これぞと渾身の品揃えであります。
http://fusensha.ocnk.net/