荒井由実「ひこうき雲」

昨晩、テレビでいいものを見た。1973年発のユーミンの初アルバム「ひこうき雲」のマスターテープを、録音当時のディレクター、エンジニア、それに演奏したティンパンのメンバーと聞き、語り合うというもの(ギターの鈴木茂はお薬の一件で欠席)。かつて、京都放送深夜に、新しいLPを丸ごと一枚えんえんとかける番組があり、ぼくはよくエアチェックしてカセットに録音していたが、そのなかに「ひこうき雲」があり、荒井由実のことは何も知らなかったが、「これは!」と思い、よく聞いていた。音楽の良さはもちろん、初めてドラムスの音(林立夫)を意識して聞いたアルバムだった。林のドラムは、乾いたカラカラした音と、沈み込むようなストンというスネアの音が魅力的だった。次の「ミスリム」はだから、発売と同時に買ったのだ。いまでも「ミスリム」はたまに聞きます。
で、「ひこうき雲」の話だが、当時、田町にできたアルファミュージックのスタジオで、有賀恒夫(D)、吉澤典夫(E)のもと、まだ無名の荒井由実、そしてティンパンのメンバーが集い、スタジオに入り、その場でアレンジをして録音するという方法がとられた。これは村井邦彦の発案で、アメリカ式のやり方だった。作曲家を志し、自分で歌う気はさらさらなかったユーミンをデビューさせたのが村井と、川添象郎。この川添さんに、ぼくは20年前近く、インタビューしている。「十人十色」という雑誌で、実業家として取材に行ったところ、ユーミンが、ティンパンが、かまやつが、なんて話になって、「ええっ!」とオドロキ、あとは音楽雑誌みたいな取材になった。川添さんは取材に協力的で、そのあと、あれはどこだったか川添さんがプロデュースする前衛的ディスコへ移動し、ゴハンをごちそうになった。
あ、もとい。ユーミンにノンビブラート唱法させたのが有賀さんで、音程が不安定で、ふらふらとビブラートする(「ちりめんビブラート」と有賀さんは言う)のが不満で、徹底して歌唱を指導し鍛えた。当時、池上のオペラ歌手のところへレッスンに行き、ティンパンの音入れが終わったあとも、一年もかけてボーカルだけの録音が続いたという。「もう歌うのがいやでいやで」とユーミン。「ひこうき雲」でいちばん思い入れのある曲「雨の街で」には、当時つきあっていた松任谷正隆とのあるエピソードがあるが、まあここでは書かない。当時、16トラックで録音され、ほんとうは、ティンパンの演奏でいっぱいいっぱいで、ボーカルは一つぐらいしか取れないところ、エンジニアの吉澤さんが、楽器のパートをトラックに押し込んで押し込んで、ボーカルを4つ5つと取って、ユーミンの歌を何度も録り、有賀さんがそのトラックから、いいところだけつないでいった。それもユーミンはいやで、「多少、音程がふらついても、感情の流れがあるから、一つだけのを取ってほしい」と言ったが、有賀さんが「ダメだ」と突っぱねた。「スタジオの隅で泣いてましたよ」と有賀さんが回想する。
ブースで、松任谷正隆が「ボーカルだけ聞かせて」「ピアノとベースだけ」とか指示を出して、マスターテープを聞いて、ああ、これはああだった、こうだったと憶い出す。
細野さんがインタビューに答えて「ティンパンアレーがいちばん油が乗ってるときで、演奏やらせればピカ一、という自負心を持っていた。そんなときにユーミンの『ひこうき雲』の話がきて、これはよくならないわけがない、と思っていた」という。
ユーミンも、しきりに「演奏がいいなあ」と感心し、ねえ、このメンバーでどこかで(ライブ)やらない? 一人10万円ぐらいとってさ」と言っていたが、もし松任谷正隆細野晴臣鈴木茂林立夫、駒沢裕城でユーミンライブが実現すれば、10万払っても聴きにいく人は大勢いるだろう。
この番組、本にしてくれないだろうか。ぼくはちゃんとメモを取りました。