拓郎ファン敗北宣言

okatake2009-04-15

一昨日の夜、めったに見ない新聞のラジオ欄に拓郎の名を見つけ、「オールナイトゴールデン」を放送中と知り、あわててラジカセを持ち出し、聞く。もう1時間ぐらい過ぎてたけど。
新しいアルバムが発売されることになり、その曲をかけながら、いろんな話。コンサート・ツアーというのは70年代、日本では拓郎が始めた。それまでは、ミュージシャンが楽器を自分で持って、何人か一緒に旅をしていた。ロックもフォークも一緒に、とっかえひっかえ、同じ舞台で歌うのだ。もちろん同じマイクを使う。シャウト系の後に出ると、マイクにツバやその他のものが飛び散って、大変なことに。
九州中をコンサートツアーをしていた時の話。そのツアーを取り仕切った北島氏が一緒にくっついてくる。コンサートが終ると打ち上げで、極悪バンドと呼ばれたバックのメンバーとどんちゃん騒ぎをする。それが楽しい。北島氏はそれが楽しみで、「早くコンサートが終らないかなあ」(主催者なのに)といつも言っていた。宮崎でライブがあった時のこと。前日乗り込みで、さっそく、翌日の打ち上げの場所を探しに行く。いい店が見つかって、店のマッチを大量にもらってきた。翌日のコンサートで、最後に「今夜はここで打ち上げだ!」と叫んで、店のマッチを客席にばらまいた。その夜、打ち上げの店にファンが押し掛け、大変なことになった。九州ツアーが終り、四国へ渡るとき、北島氏は「ほんとうに行っちゃうの?」と涙目になっていたという。
札幌厚生年金会館のコンサートも前日前乗りして、会場を下見に行ったら、ジュリーのコンサートをやっていた。翌日が拓郎。会場に入れず、ジュリーのファンが会館前でたむろしていた。もちろん女の子。拓郎が声をかける。拓郎のことを彼女たちは知らない。「きみたち、入れないの? オレ、明日ここで歌うんだよ。一緒にのみにいこうか」と、なぜかジュリーのファンを誘ってのみにでかける。
変なコンサート会場の話も。
四国では、靴を脱がなきゃ舞台に上がれない会場があった。靴下一枚で舞台に立つ。「これは歌えないもんだよお」。しかも客席は椅子がなく、コタツがあったりして、みんなミカンを食べながら拓郎を聞いている。あるいは、開幕前に「君が代」が会場に流されるところもあった。「君が代」が鳴り終わって、拓郎の歌が始まる。これもやりにくかった。
この手の話が山ほどあるそうだ。田家さんが聞いて、本にしてくれるといいが。
コンサートでの上がりは、打ち上げで使ってしまう。マネージャーは東京へ帰ってくると、いつも社長に怒られた。拓郎の打ち上げは、ミュージシャン界で話題となり、みんなバックで参加したがっていたという。
CBSソニー時代のマネージャー陣山俊一が亡くなっていたことを、この番組で知った。LPには必ずマネージャーとして、またはバックコーラスとして名前が出ていたし、オールナイトでも「陣山くんが」と拓郎が話していた。まあ、ファンの間では有名人である。陣山のことを話すときはしんみりして、「春を待つ手紙」という歌に「俊一」という名前が(じっさいは歌われず歌詞に)あるのは、陣山のことだった。「あなたをおくる日」という新曲も陣山に捧げられた曲。意見が衝突したこともあったが、「陣山という男は、いま考えると、きれいに生きていたなあ」というコトバが印象的。この曲を歌った時だけ、あとで聞くと、声が違うのも不思議がっていた。
それで「ユーチューブ」で拓郎の歌を検索していて、がくぜんとしたのだが、むかしコンサートだけで歌って、アルバムに録音されていない曲がたくさんあるのだ。「証明」「家族」「都道府県」など。もちろんアルバムに入っていない、他人に提供した曲など、ぼくはかなり知っているつもりでいたが、ううううん、と参ってしまった。どうも、当時、会場で盗み撮りをしたテープを持っている人がけっこういるらしい。なかに、それらの曲を、詩とコードを自分で起こし(楽譜などない)ギターもハーモニカも完璧にコピーし、自分で演奏してアップしている人がいた。これは完璧に負けました。
敗北宣言をここにしておきたい。以上。
ああ、最後に、うちの娘が4、5才のとき、突如として歌をつくってうたいだした。オリジナルである。それは「君は、君は雪なんだよお」とシャウトする、拓郎そっくりの歌で、ぼくがいつも鼻歌で拓郎を歌っているのを聞いて、歌詞やメロディーのパターンを覚えて、勝手にそれっぽい歌を作ってうたったのだ。けっこうよくできていて、それで今でもぼくは歌えるのだが、中二の娘に聞いたら、覚えてなかった。