娘を思う日曜日

okatake2009-01-25

このところ、2時間、3時間と断続的な眠りで目覚めてしまうこと多し。二度寝、夕方寝、夕食後寝など、長い眠りにつくことなしの、変な寝方が身に付いてしまった。
午後、娘の中学校へ、吹奏楽の発表会を聞きに行く。娘は吹奏楽部でユーフォニュームを吹いているのだが、これまで聞いてやれなかった。妻が用事で行けずに、代わりに行く。一時間で9曲、三年生が引退し、一年、二年だけの演奏。拙いところはもちろんあるが、全体には、よくがんばっているなあ、と思い、楽しかった。オープニングは「A列車で行こう」。ドラマの主題歌となった「しるし」、宮崎駿アニメの主題歌などを織り交ぜ、馴染んだメロディーを演奏。
ぼくは中学を3つ行ってるので、クラブに腰を落ち着けることなく、高校でもクラブ活動を知らない。だから、娘が吹奏楽部でがんばっている姿を見れてよかった。みんなで一つのことを、いっしょうけんめいになってやるということ、大事なことだと思う。午後の日差しがふんだんにふろそそぐ視聴覚室で、自分が50を過ぎて、自分の娘が演奏している姿を拝む日が来るとは、上京した20年前には想像もしなかった。
帰り、立川栄「ブ」を一巡り。CDがセールで、ボブ・ディラン1997年制作の「タイム・アウト・オブ・マインド」を250円で。汚れがあったが、保昌正夫横光利一全集随伴記』武蔵野書房、を105円で買う。そういえば、もう十年以上前、国分寺市にある「武蔵野書房」に招かれて、林哲夫さんと訪問したことがあった。普通の一軒家が出版社で、福田哲夫さんが一人できりもりしていたのだ。壁にいろんな作家から届いたハガキが貼ってあって、庄野潤三からのものがあって、うらやましく思ったのを覚えている。
娘が学校から帰ってきて、しきりに「お父さん、どうだった」と感想を求める。「いや、思ったより上手だったよ」と、平凡な感想を。なおも、技術的批評まで求めるが、それはわからない。いっしょうけんめいにやっているのがうれしかったのだと伝える。自分は父親なんだ、と改めて知る。こういうとき、どう言ってやれば、娘は喜ぶのだろうか。できれば喜ばせてやりたいのだが。おそろしく不器用な父親なのだ。
吉村克己『満身これ学究』文藝春秋、の書評、書きあぐね、消したり、書き改めたり。書評の書き方、誰かに教えてほしいと思うぐらい、いつも難渋する。経験はあるが、それでも、一冊、一冊、著者がそこに賭けた思いの深さを考えると、それに応えるこちらの、思いの深さが足りないのではと心配になる。蹴散らかして、どうでもいい、半端な、吐き気のするような浮き草の本がほとんどだが、そうでない本が、世に問われている。それを少しでも、たくさんの人の手に触れるように、力を尽くしたい。しかし、その力が及ばない、足りないと思うことがよくあって、迷子の犬のように見知らぬ町でうろつくこともあるのだ。
書評は難しい。そのことを忘れてないでおこう。