落語のはなしなど

okatake2008-10-16

「いろはの日々」さんが書いているのを読んで思い出したが、「プロフェッショナル」に小三治が登場。それをぼくは放送を忘れていて、後半しか見られなかった。再放送をチェックするつもり。「なぜ笑いは必要なんですか」と茂木健一郎が聞いたねえ。このタコすけ。小三治さん、困っちゃった。しばらく黙って、「ただ、笑っちゃうんじゃないですか」とぽつり。そのあと、正確ではないが、笑っているあいだは幸せで、笑っている自分が、人は好きなんじゃないか、という意味のことを言った。これにはしびれた。いい顔してたなあ、小三治
そして、好きな小噺として、「無精の会」をやろうと誰かが言い出して、めんどうくさいからやめようというのを小三治が披露して、それを二人はバカ笑いしていたが、あれはかえって落語のことを何も知らないということを暴露しているようなもので、いや、知らなきゃそれでもいいんだが、「いろはの日々」さんの言うとおり、とにかく質問があんまりひどすぎて、それに対する小三治が素敵すぎて、その落差が歴然としているのがかえって見ものだった。
椅子席になってからの池袋演芸場が映っていたが(ぶざまなかけ声をかけて、客もタコだよ)、小ぶりでいい小屋だなあ。ぼくは上京したてのころ、畳席のとき、東京の寄席に行けるのがうれしくって、毎週のように行っていた時期がある。短いあいだだけど。桂南喬という落語家を発見し、あんまりよくて、トリをつとめた週に三日続けて行った。あの南喬はよかった。「中村仲蔵」がとくに。
その畳席の池袋が閉めることになり、その最終日、いつもは5、6人の席が満員、すし詰、ひざおくりひざおくりになって、前に座っていたぼくは、とうとう高座の段に膝がついてしまった。手を伸ばせば届くような席で、小三治志ん朝(トリ)と聞いた。これはぼくの宝だ。このときの小三治「百川」が、それまで何度も小三治はじめ、いろんな人で聞いているのに、あまりにおかしくって涙が出た。あんまり小三治の印象が強すぎて、次の志ん朝が何をやったか忘れてしまったほどだった。もったいないねえ。もう20年近く前の話だ。
「だいこんの会」有志で、一度、池袋演芸場へ行きましょう。
マルクス・アウレーリウス『自省録』岩波文庫を手に入れて、読む。ちょうど2007年に改版になって読みやすくなった。そうか「グラディエーター」(ラッセル・クロウ主演)が、この時代が舞台で、主人公マキシマムを信認するローマ皇帝がこのアウレリウスだった。「グラディエーター」をまた見たくなった。
アウレリウスは例えばこう言う。
「せいぜい自分に恥をかかせたらいいだろう。恥をかかせたらいいだろう。私の魂よ。自分を大事にする時などもうないのだ。めいめいの一生は短い。君の人生はもうほとんど終りに近づいているのに、君は自己にたいして尊敬をはらわず、君の幸福を他人の魂の中におくようなことをしているのだ」
他人の思惑などどうでもいい。思惑ばかり気にするから、それを恥だと思う。しかし〇歳で死んでも、百歳で死んでも、けっきょくそれは一瞬で、まごまごしているヒマはない。自分の魂の問題なのだ。とまあ、言っているのだと解釈する。そんなふうに思えないでじたばたするのも人間だけど、ときにこういう言葉に耳を傾けて、自分を信じること、も大切なんだなあ。
さっそく、この本を使って教育誌に一本、原稿を書く。えっ、早いなあ。鵜呑みだよ。
CSで「ホテル・ニューハンプシャー」を見る。三回目くらいかなあ。途方もないホラ話に真実を混ぜ込んで、というアーヴィングの名作を、よく2時間で、もたつかずにまとめたなあ、と感心する。ジョディ・フォスター始め、キャスティングも魅力。これだけ主要人物があっさり次々と死ぬ映画も珍しい。『七人の侍』ぐらいか。
ああ、忘れてた。「新刊展望」11月号に市川慎子さんとの対談「『おんな作家』のおもしろさ」が掲載されています。また書店でもらってください。

ABCからフェアで売った二人の古本の集計が来た。册数では勝ち、金額では負けた。まあ、ぼくの負けでしょう。
岡崎さん 売れ数36冊
      合計金額 23414円

山本さん 売れ数26冊
      合計金額 32025円