いわば晩年に至って

okatake2007-12-31

昨日、今日といい天気。昨日は車と家の窓をきれいにする。すると、一天にわかに曇り、雨が落ちて来た。なれないことをするから、と妻が笑う。
ジャズのCDをとっかえひっかえしながら、部屋の片付けをしたり、単行本のゲラを見たり。ゲラには極力、手を加えたりしないようにしている。間違いの訂正や、文章の細かいところを直したりはするが。書いた時の勢い、リズム、気分はそのまま残したいのだ。
筑摩を昨日、一通り見て、今日は中央公論連載分。
北村太郎の未収録作品集『光が射してくる』(港の人)を朝からソファで、ひとやすみしながらぱらり、ぱらりと読む。こういう読書はいいねえ。書評を書くわけではなし、急ぐ読書でもなし。
詩友の中桐雅夫、黒田三郎が次々と勤めを辞めたことから書き始める「会社づとめ」。北村は戦後十以上の職を転々とし、朝日新聞校閲に身を置く。1970年時点で、さっさと勤めを辞める仲間を「つくづく偉い」と書きながら、自分は生活のため、辞められないという。
「五十歳という、いわば晩年に至って」という一行にドキリ。北村は70手前で世を去るが、五十歳は晩年という意識があった。まさしくぼくはその晩年にある。
1977年の文章では、前年11月末をもって朝日を依願退職したことが書かれている。戦後、翻訳の下訳や、少女雑誌の書評などをやったとも。その下訳のなかに、O氏訳の「怒りの葡萄」の一部、とあるが、これは大久保房雄のことならん。少女雑誌、とは「ひまわり」「ジュニアそれいゆ」「それいゆ」のことで、本書にこの書評が収められている。ケルアック、福田実訳『路上』なども紹介。少女雑誌ということをあんまり意識せず、選書しているのがおもしろい。
『光が射してくる』は、いつまでも本棚の見えるところに並べておきたい、小体な仏像みたいな本だ。
今年は今日で終わり。この、年が改まるという風習があるおかげで、われわれは365日をなんとかやりすごせば、また一年、新しい始まりとしてリセットできる。まことにありがたい。錯覚であってもいい。明日が今日よりあたらしい、と感じることができれば。晩年を生きることができる。
それでは、みなさん。では、では。