征木高司は三浦雅士にあらず

先日の征木高司三浦雅士というぼくの記憶は、どうも間違ってたみたい。いったいどこでそんな情報を仕入れたか忘れた。みなさんが、心配して、あれこれ書いてくださって、どうやら解決。関心ある方は、5月11日のコメントを読んでみてください。すごいことになってます。
訂正
「四季の味」編集者の藤田くんから、葉書が届く。一箱古本市で、ぼくは彼の店から二冊買ったが、店の名が間違っているという。筵ではなく、上がくさかんむり。どう読むんだろう。「由来は“大好きな役者”の名前」だというが、見当がつかない。友人の濱田「夢声」研吾くんにも「渋すぎ」と言われたというが、この二人に喋らせておくと、まるで、明治生れの団菊じじい、みたいなことになるので、ぼくがわからなくっても仕方がない。征木は柾木と書くし、どうも自分の名前が間違えられた、どうこう言えるレベルじゃないことがわかった。ほんと、すいません。
昨日書き忘れたこと一件。日月堂にちょうど、ガラス瓶博士・庄司太一先生の夫人が見えておられ歓談。なんでも近くの古い家が取り壊されることになり、庄司夫人がそのことを聞いたときには、すでに家のなかの古い着物(庄司夫人は骨董市に店を出しておられる)など、ゆかしいものがすべて廃棄されたあとだった。そのことを残念がっておられた。日月の佐藤さんと、これから古い家が壊されると情報が入ったら、古本屋、骨董屋、建築家、写真家、ライター、編集者のプロジェクトを組んで、その古い家の記憶を残すようにしようと話す。かつて佐藤さんがロゴスギャラリーでやった「村上家」も、本当は、一冊の本になるとよかった。
午前中、サンデー毎日の「文庫王」書評。上原隆さんの『雨にぬれても』について書く。同著は文庫オリジナル。これは「明日に向って撃て!」の主題歌(バカラック)「雨にぬれても」から取られている。そしてその歌詞が巻頭に掲載されているが、これまでちゃんと「雨にぬれても」の歌詞の中身について考えたことがなかった。ところが、これがいいのだ。
 雨粒が頭の上に落ちてくる
 足がベッドからはみ出す
 男のように
 何をやってもしっくりこない
 雨は降り続く
 僕の頭に落ちてくる
 (中略)
 でも一つだけ分かっていることがある
 どんなブルーな気分が襲ってきても
 僕は負けない
 幸せが訪れる日は 
 それほど遠くないはず
「足がベッドからはみ出す男のように」という比喩がいい。ちょっと村上春樹みたいでしょう。「まったく何をやってもうまくいかない。そんな男がぼくだった。まるで足がベッドからはみ出す男のように。そして、そんな男の頭の上にも、ちゃんと雨は降り続くのだった。やれやれ。スタン・ゲッツの軽やかなサックスが室内から消えるころ……」ってね。
昼前、妻と立川へ。買ってまもないコーヒーメーカーが調子悪く、修理に。昼食を待ち合わせ、立川へ着いたら単独行動。立川駅南口の「ブ」へ寄るが、棚が荒れて、見るべきものはない。田山花袋『東京の三十年』岩波文庫は、まだカバーのないころのを持っているが、買うものがないので、カバーつきを105円で。この『東京の三十年』は不思議な本で、かつて角川、河出市民、潮と繰り返し文庫化されていて、現在すべて品切れ、絶版。しかも、この先、講談社文芸、ちくまで再文庫化される可能性を秘めている。
「郊外の一小屋」は、花袋が柳田国男の家を訪ねる文章だが、これが渋谷の描写とは信じ難い。
「私は停車場を出て宮益の通りへ行って、それからかねて聞いて知っている路を左へと入って行った。さびしい田舎道だ。霜解の道はまだ凍らずに、靴が深く深く入った。(中略)その時分は、まださびしい郊外の、家と言ってもちらほら藁葺の屋根が見える位のものであった」