風に吹かれて、どころじゃない。脱線!

いつなんどき、なにがあるかわからない。そう覚悟していても、やはり驚くなあ。尼崎でJR脱線。23時現在、54名の死者を出す大惨事に。尼崎には従姉妹が住んでいるが、この電車に乗ってる可能性は少ない。ニュース画面にくぎづけ。ああ、それなのに、ぼくは『風に吹かれて』を求めて、立川羽衣「いとう」へ。焦って駐車場へ入れるとき、ちょうど通りかかった自転車を轢きそうになる。あぶなかった。店内に入っても30分ぐらい「ああ、危なかったなあ」とひとりごとを。
『風に吹かれて』はないなあ。で、セドローくんの日誌を読んだら、どこぞのどなたかが「はてなダイアリー」で日誌を始め、そこに、ぼくの日誌を読んで、『風に吹かれて』を買った、とあっさり書いておられる。そんな、あっさりと。yomunelの日記さんに、さっそくエールを。
しかし、この日は文庫でけっこう買物をした。鴨居羊子『のら猫トラトラ』旺文社文庫、はいいでしょう。後藤明生『めぐり逢い』集英社文庫帯付きとか、深沢七郎『東北の神武たち』新潮文庫もなかなかないところ。その他、ぜんぶで8冊買う。自分の『古本でお散歩』まで買ってしまった。350円。文庫以外を漁っていたら、この「いとう」でぼくを知る女性店員から引き継ぎで、ぼくを知る女性店員が声をかけてくれる。さっそくこの日買った文庫を解説つきで披露。
午後から、妻が買物に行くというのでいっしょに車で。ついでだ、小平「いとう」にも寄る。しかし、どこ探してもございません。『風に吹かれて』は。源氏鶏太、文春文庫もなし。ふうむ。そのかわり、岡崎祥久『首鳴り姫』を350円で見つける。この岡崎くん、早稲田の二文出身。その夜間大学の生活を書いたのが、この『首鳴り姫』。ぼく岡崎くんも立命の二部出身(じつは興居島屋の石丸くんも、だ)。だから、この作家にはただならぬ親近感がある。
夜も電車脱線事故をNHkほかのニュースをチェックしながら、ひと箱古本市の値付けをする。これにけっこう時間がかかる。楽しいけどね。
24日に買った古本、書くの忘れてました。「ブ」ですけどね、国立ですけどね。斎藤茂吉『赤光』は新潮文庫。20世紀の100冊シリーズカバー。このとき、新潮文庫で新たに組み直された一冊がこの『赤光』。吉本隆明の「赤光」論、小林恭二の解説、木下杢太郎、平福百穂のカラー口絵入り。これはいいよ。「20世紀の100冊」シリーズ自体、あまり見かけなくなってきている。集めるならいまのうち、だ。ほか唐沢俊一『カルトな本棚』同文書院
これも忘れないうち書いておく。吉田健一について安原けんが『乱読すれど乱心せず』春風社で書いているが、いまほど吉田健一の評価が高くない時代、安原らの世代にとって吉田健一はまず「吉田茂の息子」であって、それだけでもう「大バツ、本など手に取ったこともない」という。作家の評価は時代によって変わる。時代によりそって変わる、といってもいい。これはその例。たしかにな、小泉純一郎の息子(コウタロウになってしまうが)が本当はどんなに優れた書き手であっても、読む気はせんものな。
安原けんからもう少し。垂水書房から著作集が出たのは吉田が48歳のとき、「全二○巻の予定が一六巻で中断したため商品価値がなく、一九六○年代初頭、ゾッキ本として古書店の『百円コーナー』に山積みされていた」。安原は「海」時代、『東京の昔』『怪奇な話』と連載の担当者として原稿を受け取る。場所は銀座のバー「ソフィア」。いつも傍らには河上徹太郎と岡富士子(当時、文藝春秋編集者)がいた。安原のスケッチ。
 「服装は一年中同じ濃紺のスーツ、シャツは白、夏でも長袖にカフスボタンだった。ネクタイは無地で地味な色合いのもの、真夏でもネクタイを緩めた姿、見たことがない。生地は英国製、オーダーメイドなのだろうが、かなりくたびれていた。冬は、これにバーバリーのコートだが、その袖口もほつれていた。しかし彼の場合、その『ほつれ』がお洒落に見えるのだから不思議なのだ」