『古本道場』見本とどく

午前、TBS用原稿を書いて送る。西原理恵子『上京ものがたり』小学館。宅急便で『古本道場』五冊届く。段ボールの包み、もどかしいようにひっちゃぶく。現われた本は、なんとも春らしい、爽やかな本だった。徐さんの撮った口絵のカラー写真が美しい。古書店や店主(向井くん、猫と登場!)、本など、たたずまい、空気をみごとに捉えている。古本とは関係ない照明、花などもある。ふつう、古本の本なんだからと省くところだが、あえてこれを入れた。それがよかった。新しい本を手に取る。これは何度やっても、新鮮でいい気分。ほかにかえ難い心の高まりがある。
午後もずっと仕事。次はサンデー毎日グラビア。門司散策について。本文は短いがそれだけにまとめるのが難しい。キャプション多数。これも時間がかかる。ざっと4枚から5枚、流して書くほうがどれだけ楽か。しかし、雑誌のライターをやっているときは、始終、こういうタイプの原稿と格闘していた。毎日のカメラマンがデジタルカメラで撮影した多量の紙焼きを、全部もらってきて、それを眺めながら書く。カメラマンの眼というのはたいしたものだとつくづ思う。
夕方、娘が帰って来て、ちょうど原稿が終了したところで家族でイトーヨーカドーへ買物。妻が車を出すあいだ、庭(といっても小指の爪くらい)の木が花をつけていることを知る。妻に聞くと「花水木」だという。いまのいままで知らなかったのだ。『古本道場』に、いずれ「花水木咲く丘に」というタイトルの随筆集を出す、と冗談で書いたが、まさか自分の家の庭に花水木が植わっているとは。
夜、堺正章と井上順司会の歌番組(特番)を「待ってました」という感じで見る。かねがね、ぼくは堺正章と井上順は、日本のシナトラとマーティンだと考えていた。紅白歌合戦の司会はこの二人にやらせればいいのだ。夜のヒットスタジオを思いださせるセットに、生バンド、生放送で進行。いじりがいのあるムッシュかまやつもじゅうぶんいじられて楽しい2時間となった。出演者に注文はあるが、まあいいだろう。夜10時代で、こういう大人の歌番組つくれないものか。音楽プロデューサーは小西康陽、番組タイトルとセットデザインは和田誠でどうだ。
2001年9月に高田渡をインタビューしたときのノートが出てきた。メモ程度だが、少し拾ってみよう。18のときに亡くなった、父親の影響が大きいと語っている。いま生きていたら95歳、それでもぼけていても生きていてほしかった。いつも父親のことは頭にある。小学生のころ、高田家は深川に住んでいた。父親は日雇いで働いていた。朝、職安へ行っては仕事をもらってくる。一回だけ、その職安へ自転車の後ろに乗せて、連れていかれた。自分は仕事をもらうため窓口へ。渡はぽつんと置いておかれる。やがて戻ってきて、近くの売店へ連れていって「何か食うか」と聞いた。何かを教えたかったのか、何も言わないからわからない。どうも、じかに情景を見せることで何かを伝えたかったらしい。そういう人だった、という。
30年歌ってきた。長くやってこられたのは、歌い始めた時、一番最初にこうしたいと、自分のスタイルを決めた。以後、そのまま変えずにまっすぐやってきた。つまり10代が原点。自分の考えがそう左右するわけがない。根っこにあるものは変わらない。奥さんが、「ちょこっと詩を変えたらヒットするんじゃない」なんて冗談で言ったこともあった。だけど変えなかったことがよかった、と今は思っている。「湘南なんて向いてないからね、しょせん。オフコースなんて大変だよ、50を超えて恋がどうした、とか歌ってんだからさ(笑)」
世の中の事はあきらめている。年金だって収めていない。老人のために、と思ってかつては収めていたけど、いまや日本が信用できない。自分が老人になったとき、っていうけど、そのとき年金がどうなっているかあてにならない。自分の事は自分で守るしかない。年金なんて、民衆から金をまきあげて、その利子で食ってるようなもんだ。
そのほか、いいこといっぱい言っている。それを原稿では生かせなかった。いま、ここに少し再現することで許しを乞いたいと思う。
今日は古本を買わず。珍しい日となった。
追加
高田渡が亡くなったのはサッポロじゃなく、釧路の病院でした。慎んで訂正させていただきます。それから、彷書月刊HPの連載2回目が更新されてます。たいした内容じゃなくて、もうしわけない。