文朝死す

桂文朝が死んだ。63歳だった。地味な芸風だが、古典をさらりと演じて、江戸前の気風があった。ぼくは、寄席へわりあい通っていたときがあって、よく、この文朝の高座を見ている。安心して聴ける、という感じであった。文朝の訃報を伝える同じ夕刊、芸能欄に高田渡死亡に対する早川義夫の追悼文が掲載されている。早川が歌をやめるとき、高田が「今やめるのは卑怯だ」と怒鳴り、ケンカとなった。22年後、早川がまた歌い出したとき、高田はステージを聴きにきてくれた。高田渡から学んだことは、曲の終わりをみんな「ジャーン」と音を伸ばすが、高田はプツンとそっけなく終った方が余韻が残るといったこと。そして、高田がステージでしばしば眠ってしまったことを「渡ちゃんらしい」とみんなが許したことについて、「少し気になっていた」と書く。たしかに、志ん生になぞらえて、酒好き芸人のように高田をいっしゅ神格化(ぼくもそう書いた)することは、話としては面白いが、ほんとうに高田渡のことを考えていることにはならないだろう。そこに疑問を呈するところに、かえって早川の友情を感じる。
「インビテーション」ハルミンさんの書評をやっと書く。ポプラ社から、「『古本道場』の見本できました」のメールが入る。手に取るのが楽しみ。今回、共著ということもあり、みなさんにお送りすること、ないと思います。お許しください。
ケーブルで成瀬巳喜男「山の音」のニュープリント版を見る。3回目くらいか。かなり原作に忠実な映画化。上原謙は大根、ということになっていて、酔うシーンなどはまるでコントだが、ほかについてはこれでいいのではないか。これでいい、という言い方は失礼だが、妻(原節子)と心が通わず、その妻は父親の山村聡と打ち解けている。家に帰るのがおもしろくなく、外で女を作る。しかし、その女を酔って殴るという。その寄る辺なさは、ちゃんと上原をつかまえている。ところで、じっさいは、父親役をやった山村は、上原より歳下、のはず。山村、老け役、はまりすぎ。
そこで川端康成『山の音』を読み直す。岩波文庫版、昭和32年初版の47年版。まだ旧かなが使われている。このほうが感じがでる。文庫に書き込んだ記録によると、1979年、81年と過去に2度読んでいる。たぶん、このときも成瀬の映画を見たあとではないか。原作では父親・信吾の老いがはっきり描かれている。それと夢の記述が繰り返し象徴性を持って出て来る。それは信吾の性にかかわる、とエロチックな面が原作の方が強い。
 「日まわりを見てもどつた時も、菊子はなにより先きに番茶をそそいで入れた。信吾は湯呑の半分ほど飲んでから、ゆかたに着替へ、その湯呑を持つて縁側へ出た。歩きながら一口すすつた」
こういうなんでもない描写が的確で巧い。
中村光夫の解説もいい。
「信吾は老齢にかかわらず(あるいは老齢のゆえに)、少年のように無力な純潔にかえっているので、彼の孤独は、その人生への理解をのぞけば少年と同じ頼りなさと表裏しています。(中略)少年の救いは人生への無知にあるわけですが、老人の場合はこの救いがありません」
という部分に、線が引いてあった。
夕方、キューブで立川栄「ブ」へ散歩。篠田一士文芸時評集『創造の現場から』小沢書店が105円。持ってるけど。文庫では安西水丸『水玉大全集』講談社、M・エイメ『壁抜け男』角川、『寺山修司少女詩集』角川など。