17日は五反田から神保町。この日から始まった三省堂古書市に一ブース出店していて、覗きに行く。初日の売上げも後でわかったが、プロは当然ながらすごい。
西荻「盛林堂」で小野くんと立ち話、古本漬けの一日であった。
18日も夕方から西荻。ビリヤード山崎で西荻ブックマーク、ナンダロウくんと鎌倉幸子さんのトークを聞きに行く。いろいろ勉強になった。個人宅で、ポストみたいに、家の前に本を並べた箱を置き、自由に貸し出しできるミニ図書館が普及しつつあるという。震災後の被災地で、本を手渡す運動をする際、最初、無料でとも考えたが、ちゃんとお金を出して買いたいという声があり、一箱古本市を開いたという話も印象に残った。お金を出してモノを買うという日常を取り戻せたことの歓びがあるのだ。
陣野俊史さん『テロルの伝説 桐山襲烈伝』河出を、著者インタビューで担当することになったが、これは力作。ただし「サンデー毎日」読者に届くような紹介をすることも心掛けないと。
依頼された笹山敬輔『昭和芸人 七人の最期』文春文庫も読み終える。テレビ世代の喜劇人論。
ユーチューブでわりと簡単に視聴できる古い日本映画があって、一部ブロックがかけられていても、かなりの本数を見ることができる。ちょいちょい、気まぐれに見ていると、相当の確率で登場するのが清川玉枝という女優。なんの映画にどんな役で出ていた、とすぐ指摘できるほどの重要な役ではないが、じつに顔をよく見る女優なり。水商売や、酷薄な母親役などが多いだろうか。美形ではないが、その肢体に妙な色っぽさもあったのだ。とにかく、履歴書の印鑑みたいに、目立たないが、どうしても必要なポジションという意味で、貴重な女優であった。以下、ウィキペディアから引いておく。
きよかわ・たまえ
1903年明治36年)5月24日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区)に生まれる。東洋高等女学校(現在の東洋女子高等学校)卒業後、新劇女優として芽生座、築地座、創作座などに参加して舞台に立つ[1]。この間の1928年(昭和3年)、山田隆弥製作の『肉弾決笑記』で映画に初出演する[2]。
1936年(昭和11年)、P.C.L.映画製作所(後に東宝映画)に入社。成瀬巳喜男監督の『君と行く路』、山本薩夫監督の『お嬢さん』『田園交響楽』、島津保次郎監督の『兄の花嫁』などに出演し、個性的で柔軟な演技の脇役として活躍する[2]。戦後は、数本に東宝作品に出演したのち、東宝争議で新東宝に移る[2]。1952年(昭和27年)にはフリーとなり、各社の作品に出演する。特に喜劇映画では、アクの強い芸達者ぶりを見せて、脇役女優の中でも異彩を放った[2]。1968年(昭和43年)の『喜劇 “夫”売ります!!』を最後に映画を離れる。
この間に東宝映画東京撮影所文芸課長や新東宝のプロデューサーを務めた伊藤基彦と結婚し、20年に及ぶ結婚生活ののち、1950年(昭和25年)6月に離婚。このとき久保田万太郎を間に立てて離婚披露パーティーを開いて話題をまいた[2]。1969年(昭和44年)1月21日、肝臓がんのため死去。65歳没。

明治生まれで、高等女学校を卒業しているというのだから、かなりいい家柄ではないか。「個性的で柔軟な演技」と、誰が評したかわからぬが、その通りだ。