扉野くんのブログから。来月11日、京都にて、本当に久しぶりに「SUMUS」のメンバーが東から、地元京都から一同に会します。いろいろ内容ももりだくさん。楽しい夜にしたいと思います。ぜひ、おこしください。
http://d.hatena.ne.jp/tobiranorabbit/20150625
このところ、次はどの山(低山)に登ろうか、ということばかり考えている。急登を登っているときは、なんでこんな苦しいことをしているんだろう、と思わなくもないが、その先に待つ、解放感と愉悦のため、というしかない。怖いものは何もない。いつでも、なんでもかかってこい、という気になる。500メートル以下級で、何を大げさなと言われるかも知れないが、まったく平気。ブログにはいちいち書いていないが、週に一度は、東京周辺(埼玉を含む)の山に登って、汗をかいている。締め切りがあるので、「なにをやってんですか、まったく」と担当編集者に突っ込まれないため、書いていないだけ。でも、今のぼくには必要なこと。いつもぎりぎりのところで、やりくりしているのだ。山の上で、コンビニ弁当に、ワイン小瓶を開けながら、たとえば串田孫一『山のパンセ』を数ページ読む、よろこび。これは、ほかのどんなことと引き換えにしても、手放したくない。
今週、いくつか大きな締め切り、講座、打ち合わせなど、また動き始める。動ける間は、せいいっぱい動こう。その先は、知ったことか。
ぼくは非常に元気です。
前にも紹介したことがあるかしら、中村真紀子の詩集『猿かもしれない』(紫陽社)がいい。2000年の刊行。紫陽社は、もちろん荒川洋治さんの個人詩歌出版社。
表題作「猿かもしれない」後半を引く。
「風景が去ったあと/ゆるゆると/あたらしい風景が生まれる/あたらしい雨とあたらしい道/夜になって雨があがると/あたらしい月が/町をひんやりと照らしだす
水たまりにボートを浮かべて/乗っている人影/町そのものが/ボートになったように漂っている/夜のなかに/おっとりと
穏やかな夜 いや/夜ではなく/猿かもしれない」
中村は風景に身をゆだねつつ、はっきりと自己存在について、目覚めている。「夜」と「猿」は駄洒落のように見えて、そこにそう宣言することで、物語に奥行きが出るのだ。男には、こういう詩、書けないのではないか。