朝食後、資料、ファイルを整理していたら、「sumus」時代、林哲夫さんが発行していた「スムースレター」のひと揃い、ファイルしたものを見つける。創刊準備時、名前をナニにするかアンケートを取ったものもある。ひとえに林さんがこまめ、几帳面な人だったために、こうして歴史の痕跡が残った。「sumus」が好評だったのは、これはもう半分くらい、林さんのセンスと制作能力のおかげである。
林さんの時々刻々の報告のなかに、ぼくに関する情報もあり、そうだったのかと一人うなづく。1999年に大田区の文化センターで、古本の楽しみ、みたいな連続講座があり、田村七痴庵、石神井書林月の輪書林諸氏とともに、ぼくも口火を切って、話をしている。そうか、あれがもう16年も前か。熱心な担当者がいたおかげで実現したが、あの方、お元気だろうか。第一京浜がすぐ近くを通っていた、という記憶があるが、定かではない。
詳細は追って明かになるが、じつは今年7月11日に、林哲夫さんの還暦を祝って、ひさびさに「sumus」のメンバーが京都に集結しイベントを開く。東京組もみな馳せ参じる予定。名古屋にみんなで集まったのはあれはいつだったか。とにかく、いろいろ考えていますので、ご期待ください。「スムースレター」のファイルも持参します。いろんなことが、この雑誌から始まったのだと、感慨がある。
昨日は、西部「ブック&A」展で、1972年6月号「ニューミュージック・マガジン」を320円で買う。特集はブリティッシュ・ロックだが、ここに「ぼくは自分の歌に満足している」というタイトルで、吉田拓郎中村とうようにインタビューを受けている。本当はここに内田裕也が加わる予定だった由。ちょうど「帰れ!」コールを浴びていた頃で、拓郎は苛立っている。フォーク歌手とよばれるのもイヤで、むしろ歌謡曲に接近したいと発言。注目は「小柳ルミ子に曲を書きたい」と言っていること。これは「赤い燈台」という曲をのちに書き、実現している。1970年前後は、一年ごとに局面が変わる。激変の時代であった。1974年に、中村とうようが日本のフォークを全否定するような発言をし、高田渡と論争になった。これは高田渡の方が正論で、中村とうようの分が悪い。しかし、多くの洋楽派は、日本のフォークなんて、と軽んじていたのだ。その中村とうようの音楽展が武蔵野美大の美術館で開催中。これ、早く行かなきゃ。