ユースホステルの思い出

毎日「あった、あった。」で、1977年版『ユースホステル ハンドブック』を取り上げて、高2の夏休み、友人2人と中部のユースを泊まり歩いたことを憶い出す。帰宅したら、父親が死んでいたので、印象深いのだ。といって、どこに泊まったか、ハンドブックを見ても思い出せない。数年前の同窓会で、一緒に行ったSがいたので、聞いてみたが、彼もまったく覚えていないという。「あれはIが企画したんや。あいつが知ってるはずや」という。計画性がなく、同じユース(信州の湖の近くだったような気もするが)に三泊もした。お寺でユースをやっている宿に泊まったのはあれは別のときか。原稿にも書いたが、和尚が作った、人生の格言をだじゃれにしたようなのをずらずら刷ったのを、夕食後にえんえんとみんなで復唱させられた。男女が仲よくなるような、甘いミーティングはなかったように思う。みうらじゅんが、フリーセックスの島や、ときかされて隠岐のYHへ毎年のように通った話が「色即ぜねれえしょん」という小説になっている。これは読まないとな。
三泊した宿は大広間で雑魚寝で、夜、スズメバチが舞い込んで、みんなが追い回し、なぜかぼくの腿を刺した。大したことないと思ったが、フロントに言うと、それはえらいことだと、すぐ車に乗せられ、いちばん近い医者へ連れていかれ注射を打たれた。変なことを言うようだが、それが旅の終りの日で、ちょうどそのころ、父親は死んだのだ。それをぼくはまったく旅の空で知らなかった。
ユースの会員は全盛時の9分の1で、施設も半減。でも、ひさしぶりに、どこかで泊まりたくなった。
週刊現代」見本誌とどきました。やっぱり今週号に掲載されていました。
そういえば、Iとは、高校を出てから一緒に萩、津和野、広島を旅行したこともあるのだが、津和野だったか、普通の旅館に泊まったら、相部屋を御願いしますといって、あとでくたびれた中年のサラリーマンと同じ部屋に寝たことがある。旅館の人も、若いぼくら二人になら、頼みやすかったんだろう。
さいきん、無性に旅行がしたいのは、これは一種の現実逃避でしょうね。
円生の「中村仲蔵」で、長いバージョンがあり、つまり、名代となった仲蔵が「忠臣蔵」で振り当てられた役が、「弁当幕」と呼ばれる五段目の定九郎。それを雨の日にそば屋で出会った、ご家人崩れの若侍のなりかたちにヒントを得て、一世一代の役ごしらえをするという噺だが、円生の長いバージョンでは、普通演じられるこの部分が後半にすぎず、その前、30分近く、仲蔵の前歴が語られる。そこは、おもしろい話ではなく、端折ってやるのは当然なのだが、珍しい噺で得心した。
あと志ん朝の「雛鍔」という噺が、ぼくは妙に好きで、教師時代、授業中にわざわざ語ってみせたこともあったのだが、そのとき前列の女子生徒が「かわい〜い」と言ったのを覚えていて、ほんとうに可愛い噺なのだが、こないだ聴いていて、中途の大店の隠居と、そこに出入りする植木職人の仲直りの場が、本筋とは違うのだが、ああ、いい話だなあと思った。落語の奥深さはこういうところにもあると思ったのだ。