夜は嫌いではない。

阪神、もうあかん。あかんでしょ。甲子園へ戻って3連勝、いやいやそんな気配はない。ロッテの勢いは止まりそうにない。あとは、プレッシャーがかかって、歯車が狂うのを期待するしかない。しかし、ぼくは、リーグ優勝した時点で、もうええやろ、と思っているほうだ。
夜、隣家に引越してきた若い男性が挨拶に来る。実家がすぐ近くにあり、ほとんどそっちにいる。独身だということで、結婚したとき新居として使うつもりか。「もう、いるんと違う?」というと、笑って「いえ、なかなか」と返す。若いし、市役所勤務でお金は安定しているし、遊ぶのが楽しくてしかたない、という感じであった。けれど、この歳になると、ぼくなんかうらやましいとも思わない。もうリーグ優勝した時点で、ええやろと思う方なのだ。
インビテーションの原稿をやっと書く。昨日が締めきりだったから一日遅れ。半日遅れはあるが、一日遅れは珍しい。荒川洋治『世に出ないことば』みすず書房を書評する。勝手に師と仰いでいる人なので、ちょっと書きづらかった。
ベッドでうつらうつらしながら、谷川俊太郎エッセイ集『ひとり暮らし』草思社をパラパラと再読。谷川さんのエッセイは、本当は八ヶ岳高原のペンションなんかで読むのが似合っている。高原の空気を吸いにいきたくなる。エッセイ集の最後はこう閉じられている。
「鬱で苦しんでいる男に電話をかけた。女房が出て歯医者に行っていて留守だと言った。歯医者には行けるんだと思って少しは気が休まった。ついこの間まで彼は躁だった。躁のときはしょっちゅう旅に出て、最近の話題を喋りまくり元気過ぎて気持ちが通じにくかったが、鬱になったとたんに気持ちが通じるようになった……そんな気がする。眼に見えるものばかりにかかずらっていると、目に見えないものから心が逸れてしまう。もうすぐ夜だ。夜は嫌いではない」
ぼくなど、こういう文章に「詩」を感じるんだなあ。「眼に見える」と「目に見えない」とあるが、普通なら「眼」か「目」、どっちかに統一されてしまうところだが、谷川さんは書き分けている。雑誌の原稿を書いて困るのは、勝手にどんどん表記を統一したり、ひらがなを漢字にしたり、あれこれ杓子定規に手が入ることだ。ぼくは、雑誌の文章には、雑誌の個性があり、それに倣えで、基本的にはチェックされた通りに直すが、ときどき腹が立ってきて、ここはどうしてもこうでいきたい!と直さないこともある。
今日も「ブ」でちょこちょこと買ったが書かないよ。めんどうだから。じゃあ、おやすみ