okatake2015-04-29

涼しい夕風。道ばたにはタンポポツツジがかき氷のシロップみたいな俗悪な色で咲き誇っている。
札幌のネット古書店須雅屋」さん、須賀章雄さんの新刊『さまよえる古本屋』燃焼社をいただいて、ぽつぽつ読んでいるがさすがにおもしろい。古本屋日記にエッセイ、小説、マンガ(原作)とあんこがびっちり詰まったバラエティブック。ぼくと須賀さんは、同い年だから、読んでいる本とか似ている。現代詩が好きというのも同じ。若い頃の日記も含まれているが、現在近くの日記とテイストが変わらない。いまにいたって、青春記ふうなのである。つまり明日がない、つれづれの貧乏暮しが自虐的に語られているのだが、隠居ふうになるわけもなく、つまり若々しい。「ぼやき」も芸の域に達している。ぼくに関する記述も発見。札幌で中村正常(珍しい)を買ったのだが(そうか、あの本、札幌で買ったのか)、同じ本を須賀さんも見ていたというのだ。
午後、荻窪西荻と用事を含め古本さんぽ。荻窪から西荻まで歩こうと決めて、いつも通る高架沿いの道を避けて、住宅街を歩き出すが、途中で方向を見失ったらしい。なんだか、どんどん中央線から遠ざかっていく。けっこう杉並に高低差があることにも気づく。
「ささま」均一で買った昭和48年9月号「国文学」は、巻頭の大岡信丸谷才一由良君美の座談会を読みたくて買った。電車のなかで、読んでいると、丸谷の発言に、英米小説に「身分のある男にとっていちばんつらいこととして、細君がアル中だというのが出てくる。これ、とても深刻なわけね」とある。由良は、日本ではそれは「ありえませんわ」と言う。ああ!と思ったのは、いま新潮文庫で丸谷の『持ち重りのする薔薇の花』を再読しているからで、主人公で語り手の梶井は、経済界のトップたる人物だが、息子を山岳事故で失い、それがきっかけで妻がアル中になるという設定。そうか、40年あたためて、ようやく日本の小説で、「細君がアル中」を小説化したのか、と感銘を受ける。