ぶじ昨日、盛林堂プレゼンツ「銀盛会館古本市」をつつがなく終える。遅滞なく、きびきびとよく動き、つねに次の一手を考えて我々を助けてくれる小野くんに、完全におんぶにだっこの一日であった。彼と同じ働きをしたら、ぼくなど、その一年はもう使い物にならないだろう。激務をテニスプレイヤーのように、軽々と処理していくのに驚嘆する。
午後、小雨はあったが、けっきょく、過去最高の売上げとなった。それでもぼくは、二人の売り上げの三分の二ぐらい。しかし、盛林堂と古ツアの嗜好と、ぼくの嗜好がずれていて(もちろん重なる部分も多いが)、多くの客(特に最初の一時間)が二人を目ざしてのものだから、これはもう仕方がない。店番しながら『素描集』にサインと落款、イラストを入れたのだが、そのイラストの見本図案集を一枚の紙にスケッチしていたのを、机の上に置いていたら、ある男性客をこれを売ってくれというので「千円」というと、「それは高い。サインを入れてくれたら」といい、サインを入れて千円で交渉成立。まさか、こんなものが、と思うが、じつは手間のかかった手製の図案集なのである。「ハンミョウの特徴がじつに上手く捉えられている」と男性客は言うが、はあ、そんなものですか、とうれしくなる。この男性客、じつは高名な著述家であった。おもしろいことがあるものだ。「それは、岡崎さんの絵が、ちゃんとお金になるということですよ」と古ツアさんがうれしいことを言ってくれる。昼は目の前のそばや「玉川」で「なべやきうどん」。これも、楽しみ。
売れ残った本に未練はなく、盛林堂に引き取ってもらう。4時前に、そうしようと思っていた、近くの銭湯「天狗湯」へ行って温まる。三種の浴槽があり、それぞれに入る。ただ、長く浸かるのが苦手ですぐ出てしまう。しかし、じゅうぶん温まった。コンビニでビールを買って会場に戻ると、「ケンタロウくんが来た」と聞き、しまったと思う。しかもお土産をもってきてくれたというではないか。小学生のチビだった頃から「みちくさ市」に来てくれていた、この聖なる古本少年の、ぼくも古ツアさんもファンで、顔を見るのを楽しみにしている。古本のネウチをすぐ金銭換算してしまう汚れた大人になったぼくを、ケンタロウくんが浄めてくれるのだ。
今回の処分プラス上々堂からの撤退商品は、結構な量(それだけ部屋にあっても、一般的に見たら、すごい数の蔵書)だが、わが書庫はびくともせず、氷山に一角にも当たらない。しかし、その氷山の一角に当たって、タイタニックは沈んだのだから、ここから整理を始めるしかない。古本市開催はいいチャンスだった。
古本市を終え、少し片付けをし、さらに仕事が残っている小野くんを残して(盛林堂そのものの売上げもすごかったらしい)、古ツアさんと夜の西荻へ、打上げの店を探しにいくが、どこも満席で3軒断られる。歳末の日曜日の夜、西荻の酒場は沸騰していた。けっきょく、かつて和民の入っていた駅前の大型居酒屋に席を陣取り、小野くんを待ちながら、古ツアさんとあれこれ話す。29日夜八王子「むしくい堂」トークの打ち合わせも。長い一日がそして終わった。あんまり冷え込まない夜であった。

昨日、23日(日)西荻「銀盛会館」オカタケ&古ツア古本市にあわせて、最後のひと働き。本の山を崩しながら、あるいは森と化した本の柱に分け入り、どんどん整理し、商品化していく。途中、何度もうんざりする。夕方、盛林堂小野くんが本を取りに来てくれて、大小20箱ほどを車に積み込む。連雀通りを東へ。「上々堂」に立ち寄り、長らく置いてもらった「岡崎棚」を完全撤去。これが棚から出してみると、けっこうな量。「そこそこの買取りの量ですよ」と小野くん。店番している、石丸弟さんに挨拶し、再び車中。どうにか6時過ぎ、銀盛会館へ到着。8時ごろまでかかって、ざっと並べる。「上々堂」の撤収本は半額、三分の一など、大幅に値を下げて並べる。めちゃくちゃ安くなっているはずだ。文庫の束6本ほどを残し、力つきた。これからまだ作業をするという小野くんに別れを告げ、帰途に。足が重く、ふらふらしながら歩く。例によって、盛林堂は中央台に、大放出の廉価良書をずらり。よだれが出そうなり。しかし、これはお客さんに買ってもらう。古ツアさんも、まだ追加するという。なんとか、あさって、無事いちにちをやり遂げたい。29日の八王子「むしくい堂」の今年最後の古ツアさん(なんだか漫才コンビみたいになってきた)とのトークもよろしくご参集下さい。来て下さった方に、全員何かが当たるようプレゼントも用意しております。詳細は古ツアさんのブログを御覧下さい。http://furuhonya-tour.seesaa.net/
このところ、またロバート・B・パーカーを再読していて、まあ、飽きもせず、よく読むよ。『プロフェッショナル』を読み終え、『儀式』を。少女の娼婦エイプリル救出の話。エイプリルは、その後ふたたびシリーズに登場。馬場啓一解説は、スペンサーものに出てくるジャズについて知識を披瀝。なるほど、なるほど。スペンサーシリーズ屈指の名作(賛否あり)『初秋』を、「かの高倉健さんが是非自分の主演で映画化をと望んだ」とある。そうか、翻案して(私立探偵である必要はない)、北海道を舞台に、健さんがやったら、これは間違いなく見応えのある映画になっていただろう。親に省みられず、ナニにも興味を示さない少年ポールは吉岡秀隆か。陰ながら彼らを見守る女性が倍賞千恵子で……。
バッハを聴く。

昨日の話。宮里くんが(書いていいのかな)岩崎ちひろの本を作っている、というので、岩崎が神保町に住んでいて、近くに幼き日の三宅裕司もいて、意外なつながりがあることを話したら、「三宅裕司が」というところで、宮里くんが「!」という顔をしたので、さすがに、この話は知っているなと思ったが、最後まで黙って、ぼくが話し終わるのを待っていた。こういうこと、大事だなあ。つまり、ぼくが逆なら、「ああ、三宅裕司のお母さんのお乳の出が悪くて、近所のおばさん(岩崎)にもらい乳をしてたんですよね」と引き取って、先に喋ってしまうだろう。これはダメなんだなあ。人の話にかぶせて、しゃしゃり出て喋る悪い癖が、ぼくにはある。気づかないのではなく、気づいているのだが、止められない。他の人と話してても、そういう人がいて、しかも自分が喋りたい先とはちょっと違っている場合もある。(違うんだけどなあ)と思いつつ、もう喋る気は失せている。宮里くんは「!」と気づきながら、最後まで黙っていた。あの顔を覚えておこう。
黒川創鶴見俊輔伝』もうすぐ読み終わる。長い旅路であった。そうか、著者と鶴見さんは、そういうつながりがあるのか。「サンデー毎日」で久しぶりに著者インタビューが決まった。なんと、牧野伊三夫さんの『画家のむだ歩き』であった。以心伝心、というのか。やらせてくれ、と言う前に、担当のSさんが「いかがですか」と申し出てくれて、パクっと飛びついた。
今年残り原稿は、「サンデー」が一本。「赤旗」が一本。こんなにヒマで、年が越せるのだろうか。書き下ろしの原稿は、どうも方向性が見出せず、ストップしたままである。

快晴。今年さいごのサンデー本えらび。終えて、同じフロアの北條くん(「エコノミスト」)、宮里くん(毎日出版部)を誘い、千代田図書館10F食堂で、お茶して話す。宮里くん、松本零士の復刊本にすぐ重版がかかり、いまなお、3本の復刊本を同時に抱えている。疲労の極にあるように見えた。すべて終わったら、3人で新年会しようと話す。2人に別れて、まだ3時半ぐらいで、これだけいい天気で、せっかく都心に出てきたのだから、東京さんぽをと思うが、どうにも気力が沸かず、帰る。歩くのにはいい日なのだが。もう少し元気を出したい。
司馬遼太郎の対談やエッセイを、あれこれ、ちびりちびり読んではラインを引いているのだが、萩原延壽との対談「日本人よ”侍”に還れ」に、司馬のこんな発言がある。侍には小さな躾が身についていた、という萩原の言葉を受け取り、「侍は雨が降っても走らない。そして道の真んなかを歩く。雨に濡れないように軒先を歩くのは、見ていて浅ましいものでしょう。曲がり角など、直角に曲がるそうですな。直角に曲がるのが侍というものなんです」。ここでハッとした。小山ゆうが少年サンデーに連載した「おれは直角」は、まさしくそういう少年の話で、小山は、ここを読んでヒントを得たのではないか。対談が「文藝春秋」1972年2、3月号。「おれは直角」の連載開始は1973年だ。こんなやりとりも。内村鑑三は侍精神とキリスト教精神とは直結すると思っていた、と萩原。だから、吉田松陰も黒船に乗り込んで、ぶじ渡米していたらキリスト教者になっていたかも。司馬は「いいクリスチャンになるんですね」と。じつにスリリングな妄想だ。

黒川創鶴見俊輔伝』を読み継ぐ。大部で力の入りまくった評伝で、こちらも読むのに力が入る。夜中に一度目覚めることが多く、そのまま二度寝できればいいが、たいてい夜明けまでぐずぐず本を読んだりで、起きてしまう。朝食後に二度寝。これは身体に悪いよ。
昨日は牧野伊三夫邸へおよばれ。今年は、ずいぶん牧野邸へ通って、ごちそうになった。来年四月発売の「四月と十月」40号記念号がアトリエ取材特集で、同人のライターがそれぞれ画家や美術家のアトリエを訪問するという企画。この日は木村衣有子さんが、牧野さんを取材。終えて打ち上げに、ぼくも仲間に加わる。中央公論新社から『画家のむだ歩き』という牧野さんの新刊が送られてきて、木村さんからは、ちくま文庫から今月発売となる『味見したい本』をもらう。「画」「食」とお二人らしいテーマの本である。木村さんと喋るのは久しぶり。口を真一文字にして、小さな声で、こちょこちょ喋るオフビートの会話が楽しい。書き手と編集者は、本を作っている間、一種の恋愛関係(同性でも)に陥り、その編集者が担当するほかの書き手の話題が出ると、ちょっと嫉妬して「わたし(ぼく)だけを見て!」という気持ちになると、木村さんと意見が一致する。ほかの方はどうだろうか。
昨日、昼食時に、勤めている娘が家にいて、自転車に乗って外へ食べに行く。相当以前に、一度二人で入った、街角の、廃業しているかと見まがう古びた中華へ行ってみたが休み。鷹の台まで遠征して、洒落た外国名の店名と裏腹に、ここも時代が煮詰まった洋食屋へ。二人で食べて、千円でお釣りが来る安さ。チェーン店以外で、極端に食べる場所が少ないのが、いま住んでいるところの難点。年末進行で早まった、「サンデー」の原稿を書く。今日は「赤旗」試写室の年度末回顧の原稿を。また、ふらふらとどこかへ行きたくなる。時間はあるが金がない。もうずっとそうだ。

12月23日「銀盛会館」古本市のため、売るための本をどんどん作っているが、まだどうしても迷いがある。いかんなあ。新潮社のセミハードカバーの新書サイズの吉田健一『随筆 酒に呑まれた頭』なんて、文庫版も持っているから、200円とかつけて放出してもいいのだが、この装幀、サイズ、正字旧かなの本文組みなど、愛着がある。まあ、持っておこう。
先月と今月、棚を借りて古本を売っている「上々堂」の岡崎棚の売上げが思わしくなく、ここいらが潮時かと、店主のイシマルくんに「今月、20日いっぱいで、棚を閉じる」ことを告げる。長い事、どんどん棚が増殖しても、何も言わず、黙って好き勝手やらせてもらったイシマルくんには感謝している。売れないと、補充がきかず、どんどん、ぼくの作る棚の魅力がなくなっていることにも原因がある。補充の本をぶらさげ、駅から上々堂まで歩いて往復、というのも、だんだんキツくなってきた、ということもある。ときどき「上々堂の岡崎棚で買わせてもらいました」と、人に言われることもあり、ありがたいことであった。10年はやったろうか。店内で加藤千晶さんのトーク&ライブの相手を務めたこともあった。いま、上々堂では、絵本イベントとの連動や、紙芝居など、定期的にやっているようだ。引き続き、ごひいきいただきたい。
飯島耕一詩集『ゴヤファーストネームは』をひさびさに読む。「夢がほしい/などとおろかなことを言うな。/夢から逃れることに/日夜 辛苦している心が/いくつもあるのだから。」「何にも興味をもたなかったきみが/ある日/ゴヤのファースト・ネームが知りたくて/隣の部屋まで駈けていた。」「生きるとは/ゴヤのファースト・ネームを/知りたいと思うことだ。」苦い省察と生きる喜び。

押しに押し詰まった12月29日、八王子「むしくい堂」での、古ツアさんとのトークのチラシが出来上がり、告知とともに古ツアさんが告知してくれている。東京にいる方、どうぞ、おこし下さい。そのまま忘年会になだれこむ予定であります。http://furuhonya-tour.seesaa.net/
12月23日西荻「銀盛会館」での古本市の出荷用の本も準備。まだ5箱。ぜんぜん足りないなあ。目をつぶって、どかっと放出しないと、あれこれ考えていると(出し渋ると)、本が滞留したままになる。がんばります。段ボールの箱を集めてこないと。
ある人からの又聴きであるが、赤瀬川原平さんが亡くなったとき、残された手帳の日程には、びっしり仕事の予定が入っていて、知人が思わず「なんで、ここまで仕事をしなくちゃならなかったのか」と嘆息したという。江藤淳文芸時評によると、早く亡くなった作家の柏原兵三も、平均230という高血圧を押して、純文学作家としては異例の、月産260枚もの原稿を書いていたという。ぼくも高血圧ではあるが、上がって、上は160ぐらいか。もっと血圧上げるくらい、頑張った方がいい。
唐津の西海洞さんから、土地の乾きものと黒砂糖を送ってもらう。いちおう、個展のハガキを出しておいたのだが(ときどき、思いがけないかたちで、東京でお見かけするので)、行けなかった詫びに、ということらしい。なんと律儀な人だろう。いつも、いろんなものをもらってばっかりで恐縮する。すぐ返礼をする。タイミングが大事。まわりの人達に、いつも、有形無形にいろんな援助をしてもらっていることを、決して忘れてはならない。すぐ、成功している人たちをうらやみ、自分は不遇だと拗ねるからなら、おまえは。